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2004/08/28

国電も私鉄も止まって、家から会社まで歩いた日のこと

かつて自宅から会社まで、延々と2時間以上かけて歩いたことがある。

あれは確か1970年代のちょうど真ん中あたりだったと思う。

当時は春闘が燃えに燃えていて、ヤマ場に設定された日には、ほとんどの私鉄がストライキに突入し、さらに今では考えられないことだが、当時の国鉄もまたこれに合わせてストライキに入った。

そうした中で、東京の私鉄と国電のほとんどすべてがストに入り、首都圏の大量交通機関が完全に止まったことが何度かあった。

この日は、早朝の妥結は難しいという見通しが事前に伝えられていて、都心にオフィスを構える企業の多くが、スト当日の社員の確保に頭を痛めていた。
タクシーやハイヤーのほとんどは、大企業の幹部たちのために借り上げられ、都営地下鉄や都バスも動かなかったように覚えている。

貸し布団を大量に借りて、会議室などに社員を泊まらせるところや、ラブホテルまで借り上げる企業すらあった。

「不要不急の社員は、出社に及ばず」という通達を全社員に出す会社も少なくなく、「俺、不要不急の社員だから」と自嘲気味の会話も流行ったものだ。

僕はまだ職場の中では新人のうちで、不要不急のはずなのだが、「来れない社員が続出した場合のために、お前はなんとしてでも会社に来い」と言われていた。

というわけで、この日は全行程を歩きでの出勤となったのだ。

家から新宿まで歩いて30分。そこから明治通りを歩いて渋谷に出る。こんどは青山通りを延々と歩いて、皇居の方向をめざす。
新宿通りはまだ拡幅が進んでおらず、都心に向かう大動脈は青山通りだけだったのかも知れない。

青山通りには、同じように新宿や渋谷方面から、歩いて都心に向かうサラリーマンやOLたちが、大群衆となって歩いていた。

ストに文句をぶちまける者もほとんどおらず、なんだかみんなサラリーマン遠足大会のように、うきうきして歩いていた。その光景は壮観で感動的ですらあった。

やがて、溜池を経て警視庁の建物が見えてくると、もう皇居のお堀は近くだ。

家を出てからテクテク歩くこと2時間余り、ようやく職場にたどりつく。歩いてきた者はみな、一様に高揚している。

70年代、日本中が元気にあふれていて、みながそれぞれに明日の日本への希望を持ち続けていた時代の話である。

(追伸:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「50年後の日本は、貧しいおばあちゃんたちであふれる社会に」をアップロード)


21世紀の残り日数 35189日

(追伸の追伸: ややっ、昨日27日の夜11時すぎに、最初の1、2行だけ書いて「下書き」状態にしておき、今日28日の夕方に大部分を書いてアップロードしたのに、日付が27日のままになっている。この日付というのは、最初に下書きをした時点の日付になるということが初めて分かった。なんか変な気もするが、そういうシステムなのだから仕方がない。今後は、下書きする場合に気をつけなければならない)

(追伸の追伸の追伸: 日付と時刻を修正する方法があることが分かり、27日から28日に直した)

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コメント

まさたかさん、はじめまして。全く同感です。みんながそれぞれの持ち場で精一杯汗を流して、そこに明日を信じることが出来た時代でした。
この30年近くの間に、日本が失ったものの大きさに、いまさらながら愕然とする思いです。

投稿: BANYUU | 2004/08/30 00:02

>ストに文句をぶちまける者もほとんどおらず、なんだかみんなサラリーマン遠足大会のように、うきうきして歩いていた。その光景は壮観で感動的ですらあった。

素敵ですね。まだみんなが信頼の元に動けた時代。
人を押しのけなくても、がんばれば報われた時代。
そして、まだ東京の気温が3度も低かった時代…。

今、目標を失い、人を信じることができなくなり、犯罪が増え、ヒートアイランドに悩まされている、そんな今。
みんなで息抜きをしなくちゃ、きっと日本はパンクするような気がします。

オイラは信州へ逃げてきましたけど(笑)。

投稿: まさたか | 2004/08/29 23:51

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