さようならフランソワーズ・サガン
フランソワーズ・サガンが亡くなった。心不全で、まだ69歳の若さだった。
僕はサガンの小説は、たった一つしか読んでいない。それは「悲しみよこんにちは」でも「ブラームスはお好き」でもない。
サガンへの辛口批評で知られるフランスの各新聞雑誌が珍しく絶賛した「逃げ道」で、日本では1997年に新潮社から出版された。
この一冊で、僕はサガンファンになったといっていい。僕はたいてい、一つの作品が良いと、その作者にすっかりほれ込んでしまう傾向がある。
「逃げ道」は、ジャンルで言えばコメディーで、語り口のあまりのおかしさ、面白さは、一人で静かに読んでいても、声を出して笑わずにいられないほどだ。
舞台は、ナチス・ドイツによってパリが陥落した1940年。偶然一緒になった個性も生き方も違う上流階級の男女4人が、車でパリから脱出する途中で、ドイツ軍による空からの機銃掃射を受け、車の運転手が即死し車も壊れて動かなくなる。こうして、4人が田舎のど真ん中に取り残されたことから物語が始まる。
この4人のブルジョアを貧しい農村の一家が助けて、農村での思いもよらない共同生活が始まる。想像を絶する貧困を目の前にしたカルチャーショックの中で、世にも奇妙で吹きだしそうなほどおかしい人間ドラマが繰り広げられていく。
この農家には、なにやら叫び続けているだけの寝たきり老人や、白痴の青年がいて、そのことが集団生活にも影を落として、4人の混乱ぶりに拍車がかかる。
ラスト近く。壊れた車がようやく直り、運転してくれる農民も見つかって、4人は喜び勇んでパリに向かう。
結末のあまりの衝撃には、言う言葉もない。
ここでは、最後の3行を引用しておきたい。サガンはこの一言を書くために、このコメディーを書いたといってもいい。
「悲しみや涙のためには、人は、その死者の物語を知らなくてはならない。その背景を、細部を、知らなくてはならない。一方喜びや幸福は、そうしたものを要求しはしない。それらは曖昧なままで、充分に、満足している」(河野万里子訳、1997年、新潮社)
| 固定リンク
コメント