「走れメロス」のラストをどう解釈するか
僕のブログは、「表」のサイトである「21世紀の歩き方大研究」の「裏」という構成になっているのだが、せっかくの「表」と「裏」の関係を生かした記事は書いていない。
そこで今日は、「表」に連動した話を書いてみようと思う。
今日、表の「つれづれ草」に、英国ニュースダイジェス誌に掲載中の「時間の岸辺から」63回目の「夕日パワー」を、同誌に同時掲載でアップした。
この「夕日パワー」は、太宰治の「走れメロス」の話から始まって、現代と夕日について展開し、最後はまた「走れメロス」で終わっている。
「時間の岸辺から」では触れなかったが、「走れメロス」には夕日とともにもう一つ、とても重要な部分がある。
それは、一見本筋とはまったく無関係に見えるラストの数行の持つ意味だ。
ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
このくだりをめぐっては、友情と正義のため全裸で失踪したメロスに対し、太宰自身がある種のうさんくささと気恥ずかしさを感じて、メロスに赤面させた、という解釈も出されている。
しかし僕は、もしそうならば、太宰は何もわざわざメロスの話を小説に仕立てることはしなかったのではないか、と思う。
また太宰はこのくだりを入れることによって、単なる友情物語になることを避けたのだ、という見方も多いが、僕には、単にバランスをとるために入れられたエピソードとは思えない。
このラストこそ実は、太宰が最も書きかかったことで、それは異形なるものの容認すなわち異性が持つ母性に対する、太宰の渇望ないしは希求だった、という解釈もあって、僕はこれにかなり惹かれる。
僕自身の解釈はこうである。メロスは最初や途中はともかく、最後の方は友の命や友情や約束や名誉のことなど、考えていない。
最後の方では、「なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ」「ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った」と書かれていて、メロスを走らせた力は、赤く燃える夕日そのものなのではないか、と僕は思っている。
少女は、友情の美しさや名誉に感動したのではなく、夕日と一体化して全裸で疾走してきたメロスに、まぶしいほどの官能美と神々しさを見いだしたのだろうと僕は思う。
緋のマントを差し出したのは、メロスへの恋心からというよりも、極限まで生命を燃焼させた男とそれに付き合った夕日とを、ともにつつみこむ優しくて大きな異性のまなざし、すなわち普遍的・象徴的な意味での「母性」だったのではないだろうか。
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