銀行で交換した新札を手に思う、裕福と貧困
今日から11月だ。朝、家の前の郵便局で、インクジェット用の年賀状を買う。
郵便局で新札交換が出来ると思っていたのだが、新札が「入荷」するのは2、3日後になると聞かされて驚く。
そこで銀行に行って、とりあえずカバンやポケット(僕はどういうわけか財布を持たないのだ)にあるお札を、新札に交換してもらう。
簡単に出来ると思っていたら、これがタイヘン。両替依頼書に金額と名前、電話番号を記入した上、番号札を引いて呼ばれるのを待つ。
依頼書と旧札を窓口に出して、こんどはプラスチックの札をもらい、15分ほど待つ。新札交換くらいで、なんでこんなに待たされるのだろうと思う。
僕が出した旧札が、ニセ札かどうかを鑑定しているのだろうか、と気になってくる。
ようやく、1万円、5000円、1000円の3種類の新札を手にする。当然のことながら、手の切れるような新札だ。
福沢諭吉のデザインは旧札と全く同じだが、野口英世と樋口一葉がいかにも新人っぽくて、好感持てる。
生前の樋口一葉の貧しさは、ハンパではなかったらしい。
借金を申し込んだのに、何の連絡もしてこない知人に憤慨し、一葉はこんなことを書いている。
「我に罪なければ天地恐ろしからず」
本当の大金持ちは、たぶんお札を手にすることなど、あまりないような気がする。金の出入りはすべて口座に振り込まれ、口座から振り込まれて出ていくのだろう。
お札をにぎりしめ、お札のありがたみに涙するのは、裕福ではない庶民なのだ。
1枚の野口英世、1枚の樋口一葉、1枚の福沢諭吉に、明日の生活と命がかかっている人たちも決して少なくないはずだ。
貧乏を恥じる必要はない、ただ不便なだけだ、といわれる。
それにしては、富めるものがますます富み、貧しいものがますます貧しくなっていく、この不条理。
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