「ピカソ 身体とエロス展」を観て
東京・木場で開催されている「ピカソ 身体とエロス展」を観てきた。
同時代でありながら、前回観たマティスとは打って変わって、暴力的なまでの破壊と変貌を続けるピカソの作品は、良くも悪しくも観る者一人一人に、鑑賞を通じて挑戦状をたたきつけているような激しさがある。
「庭の中の裸婦」や「海辺の恋人たち」など、新聞やテレビで紹介されているよく知られた絵もよかったが、とりわけ感銘を受けたのは、中央の光るものをはさんで、双笛を吹く裸婦とそれを聴く裸婦の絵。怒涛のような破壊の勢いの中で、よくこんなに詩的で美しい絵を描いたものだと感嘆する。
浜辺でボール遊びをするデフォルメされた裸婦の絵も、小さな小屋に映ったデフォルメされない裸婦の影とともに極めて印象的で、僕は「この絵を欲しい!」と思ったくらいだ。この絵の続きのような感じで、浜辺の小屋に入ろうと、カギを差し込もうとしている裸婦の絵も、心に残る情景だった。
今回の展覧会は、身体とエロスというテーマでくくられているが、全体を通じてピカソは身体というものを、自分自身やモデルをひっくるめて、アートという怪物にとりつかれたように、あらゆる角度から描きまくっている。
身体をとことん追求していけば、性とエロスは避けることが出来なくなってしまうが、ピカソは迂回することなく真正面からこのテーマに激突している。男女の交接のやさしさ、激しさ、狂おしさ、醜さ、汚さ、こっけいさ、精神との違和感などを、ピカソは隠すことなく表現し続ける。
なぜピカソはこれほどまでに、エロスにこだわり続けたのか。僕は、この時期がちょうど1925年から1937年という、第二次世界大戦の不吉な足音が迫り来る時代であったことと、無関係ではなかったようにと思う。
戦争によって人間の身体は、ぼろきれのごとく引きちぎられ、バラバラにされて捨てられる。崇高なる精神が宿っているはずの身体は、こうしていとも無残に潰され、こなごなに粉砕される。
エロスとは戦争の対極に置かれるべき、最も平和な身体性の象徴であろう。エロスは美しいだけでなく醜怪さが付きまとうが、戦争には美のカケラもなく、醜悪さという点ではこれ以上に醜悪で愚劣なものはない。
戦争とは、直接的には身体への蹂躪であり、身体への冒涜そのものなのだ。
こうしてみていくと、ピカソが執拗にまでに描き続けたエロスによって、何を表現したかったのかが、分かるような気がしてくる。
表の「つれづれ」では、ピカソが描いた怪物ミノタウロスの目の悲しさについて書いたので、そちらも併せてご覧いただきたい。
(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「ピカソのミノタウロスは、なぜ悲しい目をしているのか」をアップロード)
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