時間軸における「消え去る」と「現れ来る」のバランス
お昼を食べたレストランに「ロンドンデリーの歌」が流れている。この懐かしさは、なんなのだろうか。
レストランを出て、東急ハンズをのぞいてみる。クリスマスグッズであふれている。美しいには違いないが、かりそめの人工美という風情で、はかなさを感じてしまう。
紀伊国屋南店で、来年の天文年鑑を買う。小学生のころから毎年買って、もう何年になるだろうか。
帰る道々、時間の流れとは何なのか、いろいろと考えてしまう。
この世界の本質は、もしかすると「消え去ること」にあるのではないだろうか。
星も、生物種も、個体も、もちろん人間も、消え去るという本質から逃れることは出来ない。
かつて現在だったさまざまな出来事が、すべて過去として消え去っていることは、とても重要なことのような気がする。
さまざまな人々の、あるいはさまざまな生き物や自然現象も含めて、それぞれの過去の累積が、たった一通りの現在という世界を規定している。
だれかの過去が、あるいは何かの過去が、ちょっとでも違っていたら、この世界もまた異なったものになっていたに違いない。
ここまで考えて、僕ははたと気付く。
「消え去る」という本質は、過去と現在をつなげて見た時に言えることであって、現在と未来の関係では逆のことが言えるのではないか。
現在から未来を見た時に、世界の本質は消え去るの反対で、「現れ来る」とでもいうことなのだと思う。
「現れ来る」とは、生成であり、誕生であり、出現であり、出会いである。それは無限の可能性を内包していて、進化を生み、飛躍を生み、発展を生む。
この世界は、「現れ来る」と「消え去る」の微妙なバランスと帳尻の上に、リズミカルに、そして希望と悲哀を伴って展開しているような気がする。
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