一見して無関係に見える事象の、深いつながりに驚く
それにしても不思議だ。僕の周りで起きている、一見したところバラバラなはずの事象が、実は意外なところでつながっていたり、深い関連性があったりする。
なにかのパワーが、こうした意味づけと立体的な関連を、わざと集中させているのではないか、という気さえしてくる。
今日の日経夕刊の「名作の横顔」というコラムに、20世紀最大の美術家とされるマルセル・デュシャンの「泉」という作品の写真が載っていた。
これは、便器にニセのサインをほどこしただけの有名な作品で、1917年の独立芸術家協会の展覧会で、出品を拒否されたという、いわくつきの作品だ。
いろいろなところで紹介されている写真で、これだけなら僕は、とくに驚くことはなかったのだ。
だが、この記事を読んでいくうちに、この「泉」という作品は、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という通称大ガラスといわれる作品(右の写真はそのレプリカ)のための習作ないしは部分だったというのだ。
ちょっと待った~!と僕の胸は早鐘のように鳴り出す。この「彼女の独身者たちによって‥」という作品は、見覚えがある。というよりも、この作品そのものが、コンサートの一部を構成していたのではなかったか。
それは9月にICCで行われたクリスチャン・マークレーのコンサートだ。「リアクティヴィティ--反応=再生する可能性」という企画展の一環として開催された。
パンフレットを読むと、クリスチャン・マークレーは、フィラデルフィアにある自由の鐘のひび割れと、デュシャンの「彼女の独身者たちによって‥」の二つに触発されて制作した、とある。
なるほど、とあらためて、「彼女の独身者たちによって‥」を見直してみる。この作品のレプリカは、東京を含めて世界に3つしかないそうだ。
企画展に行ったときは、よく分からなかったが、僕が思っていたのとは逆に、上が裸にされた花嫁で、下が独身者たちなのだという。また上と下を隔てる3枚のガラス板は、脱がされた花嫁の衣装という。
そうして見ると、この作品はとても衝撃的だ。花嫁は限りなくエロティックで、独身者たちは息づまるような閉塞の中でもがいている。花嫁と独身者を隔てるものは、あまりにも強固で、そこを突破することは永遠に不可能なのだ。
現実と虚構、表現と創造、アートと時空。最近はこうしたテーマについて、共有し対話をかわす機会が多い。
そのことが、さまざまな事象の隠れたリンクと相関について、突然訪れた啓示のように目を開かせてくれ、新たな世界へといざなってくれているのかも知れない。
(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、『時間の岸辺から』第67回「働かざるもの」をアップロード。これは欧州の邦人向け日本語新聞「英国ニュースダイジェスト」に同時掲載)
| 固定リンク
コメント