「ハウルの動く城」の元気な女たちに比べ、男の希薄なこと
宮崎駿監督作品の「ハウルの動く城」を観てきた。
映画の感想は「表」のつれづれに書いたので、ここではヒロインの少女が恋したハウルという美青年について、感じたことを書いてみたい。
動く城の主で、若い女の心臓を食べていると恐れられているハウルという男は、とても分かりにくい存在だ。
戦時下のヨーロッパという舞台なのだが、ハウルは機械マニアの少年がこしらえたようなメカニックな城を拠点にして、ふだんは何をしているのかさっぱり分からない。
時々、猛禽類のような羽で戦火の中を飛び回ったりするのだが、戦争に加わっているでもなく、戦争に抵抗しているわけでもない。
僕の見た感じでは、典型的なオタク少年で、しかもやたらに髪の色を気にしたり、ちょっとしたことで自己嫌悪に陥ったりする。
実はこの存在感の希薄さは、現代の若い男たちに共通する希薄さではないだろうか。
映画のパンフレットの中で、養老孟司氏が「ハウルってだれ?」という文で、「ハウルというのは、男そのものであろう」と書いているが、なるほどと思う。
養老氏はこの中で、免疫学者の多田富雄さんの言葉として、「女は実体だが、男は現象である」というくだりを引用している。
なるほど、映画の中の女たちは、ソフィーも魔女たちも実に溌剌としていて生き生きしているのに対し、男がヤワで元気に乏しく、存在が希薄である理由が分かったような気がする。
それにしても、そんなハウルにソフィーが恋をしてしまうとは、男と女とはまことに不可思議な関係なのだと思う。
(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「『ハウルの動く城』を観て思った、老いと恋と希望」をアップロード)
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