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2004/12/31

さよなら2004年、みなさん良いお年を

いろいろなことがあった2004年も今日が最後です。

ブログを始めてから半年あまり、これまでアクセスいただいた多くのみなさん、そしてコメントやトラックバックをいただいた方々、ありがとうございました。

まもなく明ける2005年が、すべてのみなさんにとって、幸せで実りある年でありますように。

僕はいまから都内某所に出かけます。

もし可能ならばモブログをするかも知れませんが、とりあえずはこれにて大晦日のご挨拶ということに。

みなさん、どうぞ良いお年をお迎えください。

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2004/12/30

ベートーベンの交響曲9曲を一晩に一人で振る

指揮者の岩城宏之さんが、明日大晦日の夕方から東京・台東区の東京文化会館で、ベートーベンの交響曲9曲を、1番から順に全曲を一人で指揮するという。

岩城さんは72歳。午後3時半から始まって、途中5回の休憩をはさみ、最後の「第九」が始まるのは、年明けて元日の午前0時40分だそうだ。

これは指揮する岩城さんはもちろんだが、オーケストラ(N響を中心とした特別編成)の団員たちにとっても、聴衆にとっても、集中力の持続が勝負となりそうだ。

この9曲を、好きな順にランク付けをしてみると、どんな結果になるだろうか。

僕の個人的な好みで順位をつけるならば、こんなふうになる。

1位 第3番「英雄」
2位 第9番「合唱付き」
3位 第7番
4位 第6番「田園」
5位 第4番
6位 第8番
8位 第1番
7位 第2番
9位 第5番「運命」

1位の「英雄」は、ずば抜けて傑出していて、これこそ楽聖の最高傑作だと僕は思う。どの楽章もいいが、とりわけ2楽章の葬送行進曲が凄い。マジョーレの後のフーガは壮絶としかいいようがない。

9番は2楽章のスケルツォが、また7番は2楽章の不滅のアレグレットがすばらしい。

「運命」が最下位になったのは、どうも僕はこの曲がわざとらしくて、というかベートーベンらしくなくて、好きになれないためだ。とりわけ第4楽章は、もうたくさんという感じになる。

クラシックファンの皆さんは、どんな順番をつけることだろうか。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「京都議定書を実施しても、温暖化の破局を10年遅らせるだけ」をアップロード)

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2004/12/29

東京に初雪、3月に降る春を告げる雪のようだ

04-12-29_13-14東京に平年より4日早い初雪が降った。ビチャビチャと水っぽい雪だ。

この雪で、今年の冬は例年なみの寒さなのだろうか、と思う人も多いだろう。

が、僕の直感でしかないが、この雪はなんだか3月ころに降る、春を告げる雪のような感じがする。

太平洋側を、低気圧が通るという気圧配置からして、これは春によく現れる天気図を思わせる。

年明けてからは、時々こうした雪があるとしても、全体としては暖冬で推移していくのではないだろうか。

こんどの花粉の量は、今夏の猛暑の影響で、ただならない量になるものと予測されている。

今年も残すところ、2日となった。明々後日はもう2005年だ。

大晦日の深夜に、BS11で生放送されるベルリン・フィルのジルベスター・コンサートは、なんとオルフの「カルミナ・ブラーナ」全曲だ。時代の気分を反映しているのかも知れない。

10月18日のブログでも書いたが、最も知られている第1曲の歌詞の一部を、もう一度書いておこう。
運命の女神フォルトゥナを歌ったこの歌詞、僕はとても気にいっている。

おぉ、フォルトゥナ
汝はかの月の面の
変るにも似て、
欠けては満ち
満ちては欠くる。
人の世の、情なく、
喜びも苦しみも
意のままにして、
人の心を弄ぶ。

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2004/12/28

2004年はアナス・ホリビリスだったか

アナス・ホリビリスとは、ラテン語で「ひどい目にあった年」という意味だ。

エリザベス女王は、1年を回顧するクリスマス・イブの演説で、ときどきこの言葉を使う。

今年は、アナン国連事務総長が「アナス・ホリビリスが終わるのでほっとしている」と先週語ったばかりだ。

そのアナス・ホリビリスの最後の最後に、とんでもない大惨事が待ち受けていようとは、アナン事務総長にとっても予想外であったろう。

スマトラ沖地震・津波の被害は日増しに増えて、死者は7万人超、被災者は数百万人に及ぶ、と今日の夕刊が報じている。

何事もなく経過していた平穏で安寧な日常が、一瞬にして破壊される。まさにこの世は、一寸先は闇、なのだ。

だれもが、自分を襲う明日の災難を予測するすべもなく、とにもかくにもこの平凡でささやかな安逸が、明日も明後日も続くに違いないと信じて、今日の一日を懸命に生きる。

僕にとって、今年はどういう年であっただろうか。初めてのブログ、初めてのカメラ付きケータイ、初めての海外一人旅、初めての中国語での会話、と初体験づくめだった。

少なくとも、アナス・ホリビリスではなかった、といっていい。が、一方では流砂のような時の虚無と空しさを、今年ほどかみしめた年もない。

この世には、何か確固たる絶対的なものなど存在しない。すべての物事は恐ろしく流動的で変わりやすく、磐石の信頼に足る恒久普遍のものなど、そもそも最初からありえないのだ。

流れにさからわず、たゆたうように、漂うように、自然体で生きていくうちに、道がひとりでに開けていくか、そこでおだぶつになるか、人間にはそのどちらかしかない。

なせばなる、というのは一面の真理ではあろう。

が、なるようにしかならない、というのもまたそれ以上の真理なのだ。

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2004/12/27

大津波の死者2万2000人、人間は壊れやすい存在

スマトラ島沖地震による大津波での死者は2万2000人超という。被害はインド洋周辺の国々から、アフリカのソマリアやケニアにまで広がっている。

インド洋の島々からなるモルディブの首都マレは膝上まで水に浸かっており、モルディブ政府は緊急事態を発令した。

人間の肉体とは、なんともろくて壊れやすいものなのだろうか。

肉体もそうだが、人間の精神もまた、きわめて不安定で脆弱なものだ。

人間の築き上げた文明もまた、人間の肉体や精神とおなじくらいに儚く、長続きしないものなのだ。


もうずいぶんと昔のことになるが、僕の郷里の新潟で大地震があった。

学生だった僕は、同郷の学生たちと一緒に夜行の急行列車に乗り込み、郷里に向かった。

新潟に近づくにつれて、線路の状態はしだいに悪くなっていき、列車はひんぱんに立ち往生するようになった。

石油タンクの爆発・炎上によって、周辺の民家も多くが炎に包まれ、いつ動き出すとも知れない列車の窓からも、赤々とこげる夜空が前方にうかがえた。

列車は4日4晩もかかって、ようやく新潟に着いた。

水道もガスもとまって大混乱のさなかに、僕が帰省したところで足手まといになることは目に見えていた。

それでも、家族の無事な姿をこの目で確認せずにはいられなかったのだ。

信濃川にかかる橋げたは落ち、4階建ての鉄筋コンクリートの県営アパートは横倒しになっていた。

石油タンクや民家が炎上した臨港町にあったM子さんの家は、跡形もなく燃え尽きていた。

M子さんの消息が分からないまま僕は再びキャンパスに戻り、怒涛の学生運動の荒波に呑みこまれていった。

時はめぐり、あれから数十年が経過した。

列車の窓越しに見えた、赤々と燃える夜空が、つい昨日のことのようにまぶたに浮かぶ。

追伸(12月30日) スマトラ島沖地震による死者は、各国で合わせて12万人を超えることが確実になった、という。

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2004/12/26

夕方5時に流れてくる「たき火」のメロディー

日の暮れるのが早いとはいうものの、冬至を過ぎてからは、1日ごとに日が長くなっていく。

クリスマスの起源は、冬至でいったん死んだ太陽が蘇る農耕祭だったとされている。

ローマ時代から各地で続いていたこの祭りの日に、のちのキリスト教指導者たちが、キリスト生誕をあてはめた、というのが本当のところのようだ。

夕方5時きっかりになると、僕が住むこの地域一帯に広く、「たき火」のメロディーがオルゴールの音色でスピーカーから流れてくる。

どこから流れてくるのか、新宿区や中野区かどちらかの区が流しているのか、何年も聞いているのに分からない。

春になると、「どこかで春が」のメロディーに変わり、夏は「夏の思い出」、秋は「村祭り」に変わる。

流れる時間は、冬場は5時だが、夏場は6時に変わる。

メロディーや流れる時間が、いつ変わるのかは、何年たってもまったく気づくことなく、いつの間にか季節の移ろいとともに、さりげなく変わっている。

今年も、残り1週間を切った。冬来たりなば春遠からじ。

あと40日もすれば立春である。春よこい、早くこい。春になったら、何かいいことがあるような予感がする。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「2029年4月13日、小惑星が地球に衝突する確率は」をアップロード)

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2004/12/25

文字が大きくなった新潮文庫でドストエフスキーを読む

 このところテレビも映画も見ることなく、引きこもり気味の日々が続いている。いったんは旅に出ようと思って、新幹線やら宿の手配もしたのだが、直前になって面倒くさくなって、すべてキャンセルしてしまった。

 こういう時は、じっくりと読書の世界に没入するに限ると思い、まずはドストエフスキーの中でも僕がついぞ読むきっかけをつかめかった「白痴」と「悪霊」を読もうと思い立った。

 ところが、こんなに名高い作品というのに、どの大書店を回っても、また系列の他店を探してもらっても、まったく置いてないのには驚いた。

 ドストエフスキー全集というのが、過去に何度もさまざまな出版社から刊行され、10年ほど前には筑摩書房から出ているが、現在はすべて絶版になっている。

 新潮世界文学というシリーズがあって、ジュンク堂や紀伊国屋書店には一部が並べられてある。何巻か含まれているドストエフスキーは、どれも品切れになっていて、もはや絶版状態のため注文しても取り寄せ不可という。

 そこで残るは、古書を探すか、文庫本で我慢するか、どちらかしかなくなる。

 古書はいろいろとネットであたってみたが、シミやヤケのあるチョー古いものはあるが、筑摩の全集は全巻揃いで19万円もするし、筑摩や河出書房のバラとなると全く出ていない。

 文庫本は、新潮文庫がドストエフスキーものをたくさん出しているが、文庫は文字が小さくてとても読めたものじゃないだろう、と僕は思い込んでいた。

 ところが、である。新潮文庫がいま、文字の小さい版から文字の大きい版へと切り替わっている最中であることを、僕は初めて知った。

 書店には、「罪と罰」のように文字の小さい版と文字の大きい版と、両方を棚に並べてあるケースもあることが分かった。文字の大きい版は、ページ数が多くなって、定価も高くなっている。

 「白痴」は幸いにして文字の大きい版になっていて、これならば全集ものよりもずっと大きな文字で読むことが出来る。

 「悪霊」については、数日前に見た時には文字の小さい版しかなくて、がっかりしたのだが、今日、もう一度書店に行ってみたら、なんと文字の大きい版が出ているではないか。わずか数日のことで、これはまるで夢のようだ。

 というわけで、この冬は当分の間、ドストの世界に閉じこもろうと思っている。

 旅に出るのは、春が来て暖かくなってからだ。

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2004/12/24

神の名でイラク人10万人を殺して、なにがクリスマスか

クリスマスイヴというのに、心が晴れない。かつては、クリスマスも歳末の街の風物詩と割りきっていたが、今年はどうもそんな気分になれない。

そのひとつには、クリスマスのそもそもの意味であるキリストの誕生を、なぜ僕たちまでがバカ騒ぎして祝わなければならないのか、という疑問だ。

とりわけ、今年はキリスト教なるものに対して、強い違和感を感じる。

昨年、ブッシュがイラク戦争の開戦を強行したのもキリスト教における神の名においてであったし、大義のない誤れるイラク戦争を率いたブッシュを大統領に再選した原動力も、米国内のキリスト教右派だった。

敬虔なクリスチャンには悪いが、キリスト教の神はいいように戦争のダシに使われ、去年3月からに限っても、神の名の下でイラク人10万人が殺されている。

アメリカのいう神とは、人殺しの神であり、虐殺でもなんでも平気で行う神である。それは、アメリカの、アメリカによる、アメリカのための神なのだ。

バチカンも同じ穴のムジナだ。アメリカの軍事暴走が、キリスト教の教えに相容れないものであるなら、ローマ法王が身を張って立ちはだかることだって出来たはずだ。

プロテスタントとカトリックの違いがどうなのかは知らぬが、キリスト教の神というのは、この2000年間、人類を救ったためしが一度もない。

そんなあやしげな、権力むき出しのキリスト教の最大の祝日を、僕たちまでが能天気に祝ったりはしゃいだりするのは、おかしいと思わないか。

イラク戦争に反対し、イラクからの米軍と自衛隊の早期撤退を求める立場として、今年のクリスマスはむしろ神に抗議したい気持ちである。

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2004/12/23

虚無と無限の中間者としての人間

パスカルといえば、昔学校で習った「パスカルの原理」や、「人間は考える葦である」という有名なフレーズを思い出す。

今日たまたま、本をパラパラとめくっていたら、パスカルの「パンセ」の中の言葉がいくつか目にとまった。
なかなか含蓄のある言葉ばかりで、300年以上も昔に語られているのに、現代に十分通用するものが多い。

「悲しみは知識である。多く知る者は恐ろしき真実を深く嘆かざるをえない。知識の木は生命の木ではない」

「人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない。自分自身においても、また他人に対しても」

「もしクレオパトラの鼻がもっと低かったなら、世界の歴史は変わっていただろう。人間のむなしさを知ろうとするなら、恋愛の原因と結果とをよく眺めるがよい」

「そもそも人間は自然のうちにあって何ものであろうか? 無限に比しては虚無、虚無に比しては全体。無と全体とのあいだの中間者。両極を把握することからは無限に遠く隔てられているので、事物の終局やその始原は、人間にとっては、しょせん、底知れぬ神秘のうちに隠されている。彼は自分がそこから引き出されてきた虚無をも、そこへ呑みこまれていく無限をも、ともに見ることができない」

僕は、パスカルにおける虚無と無限のとらえかたに強く惹かれる。彼は人間を、虚無と無限の2つの深淵の中間者として位置づけた。

これこそが、現代に生きる僕たちに最も必要な視点ではないだろうか。

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2004/12/22

ゲーテの『ファウスト』を読んで、メフィストに共感

ゲーテの『ファウスト』を5日かけて読み終わった。若いころに何度か読んだはずだが、年をくってから読むと、まったく新しい物語のように感じる。

全体を通して、僕はファウストよりも、メフィストフェレスの圧倒的な存在感にシビレてしまった。メフィストは悪魔とはいうものの、ファウストよりもはるかに賢く弁舌さわやかで、世界というものの現実と本質を冷静に見据えているという気がする。

ゲーテがこれを書いた頃とは比べ物にならないほど、現実の人間社会が悪魔化し、悪魔そのものをはるかに超えた悪の世界になってしまっていることが根底にあるのだろう。

いま世界で起きていることは、メフィストでさえも震え上がるほどの残虐・非道のきわみであって、僕たちは悪魔というものがどの国のどんな階層に巣食っているものなのかを、日々、見せ付けられて知っている。

『ファウスト』に登場するメフィストは、僕に言わせれば、この世界の真理を求めて苦悩するファウストの分身なのだと思う。だからこそ、僕はメフィストの方にはるかに惹きつけられ、言動のいちいちに共感を覚えてしまう。

もうひとつ、今回この物語を読んで感じたのは、美しいと言える「時」を求めて悪魔と契約を交わしたファウストが最も渇望し、捜し求めていたものは、つきつめていくと、理想の女性の愛情だったのではないかという点だ。

第1部では何も知らない無垢の町娘グレートヒェン、第2部ではギリシャ神話の伝説の美女ヘレナと、ファウストは全くタイプの異なる女に入れ込んで、それぞれ子供をはらませるが、どちらも悲劇的な結果となる。

ヘレナはファウストの夢の中、という設定にも読めて、現実感に乏しいが、グレートヒェンがファウストに恋焦がれて大罪を犯して破滅していくくだりは、この上なく悲しくて救いようがなく、この物語の白眉といっていい。

ファウストが最後の方で、「憂い」との対話で言うせりふが興味深い。「永遠を求めて何になろう」「求める限り苦しみがあり、幸せがある。ひとときも満ち足りることはない」

「時よとまれ、お前は美しい」という言葉を、ファウストは言ったのだろうか。そこのところを何度読み返しても、言っていないように読める。

ファウストが死んだ後、メフィストが「哀れなやつめ、とどのつまりはできそこないの空虚な時をにぎりしめようとした」と言っているのが、グサリと突き刺さる。

できそこないの空虚な時をにぎりしめようともがいているのは、いまに生きる僕たちの姿でもあるのだ。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、『時間の岸辺から』第69回「そろばん復権」をアップロード。これは欧州の邦人向け日本語新聞「英国ニュースダイジェスト」に同時掲載)

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2004/12/21

冬至の太陽の真後ろに、夏至の日の地球があった

僕はいつも、冬至の日になると太陽を見る。

太陽を見る、という言い方は正確ではないだろう。太陽の真後ろ、地球と太陽との距離を、そっくり反対側に延ばしたあたりの宇宙空間に思いをはせる。

僕はまぶしく輝く太陽の真後ろに、ちょうど半年前の夏至の日に、僕たちを満載した地球が通っているのが、見える思いがする。

あれから6カ月かけて地球は太陽の周りを半周する旅を続けて、いまちょうど夏至の時とは反対側に来ているのだ。

夏至の日の地球はもちろん、今の僕たちから見えようはずもない。

だがもしも、0.5光年離れた宇宙空間から、とてつもない精密な望遠鏡を向けたならば、半年前の地球の姿を「リアルタイムで」見ることができるはずだ。

そこには、この半年間に戦乱や災害、病気や事故で亡くなった無数の人々が、まだ元気で生きている光景を見ることができるだろう。

2004年6月21日の僕が、そしてあなたが、そこにはいるはずだ。

過去に発せられた光は、光速で宇宙空間を旅していく。タイムマシンは作成不可能でも、過去が発した光はそのまま真空を伝わって広がっていく。

いまから半年かけて、地球は太陽の周りを半周して、また来年の夏至の日には今見ている太陽の真後ろの位置にたどり着く。

宇宙のどの場所からも、どんな精密な望遠鏡を使っても、これから先の地球の様子を見ることはできない。たとえ1日後であっても、否、5分後であっても、未来の光景は観測不能なのだ。

時間は旅人である。宇宙も銀河も太陽も地球も、生き物たちも人間も、みな時間とともに旅をしている道連れに過ぎない。

何のために旅をしているのか。旅の目的はあるのだろうか。人はなぜ苦しみを背負って旅をしているのだろうか。

ユズの香りをかぎながら、広大な宇宙と卑小な自分のかかわりに思いをはせて、せつなくなる。

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2004/12/20

国民1人600万円の負債、国の財政は事実上破綻

05年度予算の財務省原案が、夕刊各紙の1面トップを飾っている。関連記事もたくさん載っている。

しかし、どの新聞の記事も、非常に分かりにくい書き方をしていて、何が問題なのか、暮らしはどうなるのか、一向に読み取ることが出来ない。

朝日の1面のトップ見出しは「新規国債 4年ぶり減」だが、これがメーン見出しというのは、極めて政治的な意図に基いた誘導のように思う。

この予算原案の特徴は、僕が見たところ、2つある。

一つは、朝日の見出しとは逆に、国債の残高が538兆円に達して、初めてGDP(国内総生産)を上回ることだ。国債と地方債を合わせた残高は774兆円にも達し、対GDP比は151%と先進国の中では突出している。

国民のアタマ数で割ると、赤ん坊から老人まですべての国民が一人600万円ずつの負債を背負っていることになる。返却のアテがあるどころか、累積残高が1000兆円を突破するのは時間の問題だ。

しかも、景気が回復すれば金利が上昇して国債・地方債の利払い増につながり、景気が回復しなければ税収減につながるという、どちらに進むこともままならない立ち往生の状態なのだ。

もう一つの特徴は、来年からケタ外れとなる国民の負担増である。

年収700万円サラリーマン所帯(専業主婦、子ども2人)で、いま決まっているだけでも年間4万9000円の負担増になり、再来年はこれに加えてさらに年間4万9000円の負担が増える。

こうした重大な問題を、なぜ大新聞ははっきりと、分かりやすく、大きな見出しで報じないのだろうか。

羊のようにおとなしく、コイズミ政権にヘラヘラとついていくだけの国民は、すっかりなめられたものである。

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2004/12/19

久しぶりに「表」サイトのプロフィルをミニ更新した

「表」の「21世紀の歩き方大研究」のプロフィルのページを、久しぶりに更新した。といっても、何を隠そう、たったの1行を追加しただけなのだ。

File01421今日、九州電力の女性向け広報誌「宙」(そら)のNo.2が送られてきた。この中の、「女のおもしろエネルギー講座」というページで、僕の表サイトの「地球カレンダー」を抜粋引用している。

編集部から、引用させてほしいというメールが来た時に、掲載号を1部送っていただきたいと頼んでおいたのだ。

こうして律儀に送っていただけるのは、本当に有難いことだ。早速、プロフィルのページの、これまでに表サイトを紹介したり内容掲載してくれたメディアの一覧に、加えさせていただいた。

送られてきた広報誌「宙」を見ていて、ヘエ!と思うことがあった。

今、日本の発電電気量の6割を担っているのが火力発電だが、この火力の中身で主力となっているのは、何だと思うだろうか。

僕は当然、石油だとばかり思い込んでいた。それが違うのだ。じゃあ、石炭かと思うと、それも違う。

火力発電の主力となっているのは、なんと天然ガスで、これが火力の45%を占める。ついで石炭が36%で、石油は18%を占めるに過ぎない。

記事を読むと、30年前は火力の中心となっていたのは石油だったが、2度にわたるオイル・ショックによって、その後は石油依存からの脱却をはかってきた、とある。

それにしても、天然ガスは気体の状態で地中に存在する化石エネルギーであり、埋蔵量は有限だ。しかも、石炭や石油に比べれば少ないとはいえ温暖化の原因となるCO2を排出し続ける。

日本の発電量に占める原子力の占める割合は、現在31%だが、これ以上増やすことは、安全や環境からも好ましくないし、新たな建設は極めて困難になりつつある。

クリスマスから年末年始をはさんで、ミレナリオだのルミナリエだのと、各地でさまざまな電飾のイベントが行われている。

イリュミネーションの美しさは、発電によって支えられている。湯水のようにジャブジャブと電気を使える時代は、それほど長くは続かないような気がしてならない。

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2004/12/18

「負け犬」と「オニババ」議論の中、女の選択と男の責任

このところ新聞などでは、「負け犬」と「オニババ」をめぐる議論が盛んだ。

もとはといえば「おひとりさま」が流行ったあたりから、結婚しない女、あるい男に頼らずに自立して行動する女が、なにかと脚光を浴びていたのだが、それがここにきて極まれりという感じなのだ。

それぞれ、酒井順子さんの「負け犬の遠吠え」と、三砂ちづるさんの「オニババ化する女たち」が「原典」で、すでに言葉そのものが一人歩きして止まらない。

こうした言葉に対しては「女つぶしの常套手段」として批判・反発する人たちも少なくない。

僕はどちらの本も読んだわけではないので、著者の真意については分からないが、「負け犬」や「オニババ」の持つ語感が、現在の日本に漂っているある種の危機を、歪んだ形にせよ反映していることは確かなのではないか。

女性が多様な生き方を選べる時代になったことは、本来は肯定されるべきことなのに、それが現実には女の選択の結果としてではなく、さまざまな社会的事情や制約によって、はからずも「負け犬」として気丈に生きていかざるを得なくなっている。

「おひとりさま」→「負け犬」→「オニババ」のコースに、女たちを追い詰めているものの正体を見据えることも、また大切なことのように僕は思う。

「負け犬」の大量出現や「オニババ化」には、男の責任が大きい、という女の側からの指摘はその通りだと思う。

これは、女の問題であるとともに、実のところは男の問題なのだ。

女にだけこうしたレッテル的な言葉があって、男にはないことが、問題の本質を見えにくくしている。

規制緩和と能力主義の導入の中で、いま日本の社会は急速にむき出しの競争社会となりつつある。少数の勝ち組みと、大多数の負け組みとに、社会が二極化しつつあるのだ。

女ももちろんだが、男もまた経済的に自立することが困難を極めていて、結婚難の以前に恋愛難の時代といわれる。厳しい経済状況の中で、男と女の出会いのチャンスが激減しているという指摘も多い。

「負け犬」や「オニババ」をマスコミが面白がって揶揄している社会で、どうして少子化を食い止めることなど出来ようか。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「情報過多の洪水を嫌気し、『ファウスト』をじっくりと読み始める」をアップロード)

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2004/12/17

覚えのないキーワードで検索されている原因は

キーワードによるアクセス解析を見ていると、いろいろなことに気付く。

先週から今週にかけて、キーワードから僕のブログにたどり着いた人のうち、最も多かったキーワードは「首都圏直下型地震」だった。

ついで、「フランシーヌ・ルコント」や「ハウル」も多かった。「人生万事塞翁が馬」や「いくたびも雪の深さをたずねけり」をキーワードに、たどり着いた方もいる。

全く覚えのないキーワードに「21歳未満禁止」というのがあった。僕はこんな言葉を含むブログを書いた記憶はない。

不思議でたまらなかったので、googleでこのキーワードで検索してみたら、なんと僕のこのブログが検索結果に現れた!

その記事は、7月1日に創刊された無料の週刊誌「R25」についての記事で、見出しと本文中に「25歳未満禁止」という文字列がある。

これがなぜ、「21歳未満禁止」というキーワードで検索されるのか。その秘密は、僕のブログのフォルダ名にあるようだ。

僕のブログのアドレスには「21」という文字はないが、アドレスに続くフォルダの名前を「21st」にしている。

奇妙なことに、フォルダ名の中の「21」という数字と、検索キーワードの中の「歳未満禁止」という漢字部分が、勝手に結合して、「21歳未満禁止」で僕のブログが検索される結果になっているのだ。

無関係なはずの文字列が勝手に結合して、別なキーワードを作ってしまうとは、地球の歴史の初期において、さまざまな分子が勝手に結合して、原子生命を創り出した時を想起させる。

それにしても、「21歳未満禁止」というキーワードで検索しようとした方は、いったいどんなことを調べたかったのだろう、と思ってしまう。

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2004/12/16

水戸で平年より49日早く梅が開花、南房総ではスイセン

地球と生命圏に、赤信号が点滅を始めている。それなのに、世の中はさほど驚いている様子もない。

こういうことは、当面生きていく上で関係ないことなのだろうか。それとも、多くの人がおかしいと感じていながら、どうすることも出来ないのだろうか。

異変その1は、水戸地方気象台が昨日15日、平年より49日も早い梅の開花宣言を出した、というのだ。平年の開花は2月2日で、気象台の観測開始以来、最も早い開花という。

まだ年も明けてないどころか、ようやく年賀状の受付が始まったその日に、開花してしまうとは、異変を通り越して、これはすでに天変地異といっていい。

異変その2は、千葉・南房総の鋸南町で、これまた平年より1カ月も早くスイセンが満開になってしまい、毎年1月に開催している「水仙まつり」を急遽、15日から始めた、というのだ。

異変その3は、米の大学研究チームによると、世界の鳥類の14%が今世紀末までに絶滅する、という予測が出た。鳥類が激減する結果、感染症の拡大や農作物への害虫被害が深刻になっていく、と警告している。

人間が戦争や経済競争に明け暮れている間に、とりかえしのつかない事態が、急速に進行している。

今年は、クマだけでなく、イノシシもエサ不足のため人里近くに出没していて、狩猟の格好の標的となって殺され続けている。

クマもイノシシも、森の動物たちを代表して、身を持って人間へのメッセージを届けに来ているというのに。

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2004/12/15

アクセスが20000を超えた!

20008アクセス数が20000を超えた。

10000を超えたのが10月4日で、この時点での1日平均アクセスは96だった。

そうかあ、あれから2カ月と10日経ったのか。いろんなことがあったなあ。

現在は1日平均アクセスが113に増えている。どういう方々が見に来ているのかつかめないが、これまでアクセスしていただいた皆さんに深く感謝したい。

それにしても、画像のアップロード方法が全く変わってしまっているのには驚いた。

これまではブログ記事の新規作成のところに、アップロードというボタンがあったのがなくなっている。

ココログのトップページに書いてある変更の注意書きを読むまでは、どうやっていいのか分からず、お手上げだった。

ともあれ、これからもアクセスやコメントをよろしくお願いいたします。

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食糧あるが出口なし、食料ないが出口1%、どちらを選ぶ

次のどちらかを選択しなければならないとしたら、どちらを選ぶだろうか。

A 数カ月の食糧はあるが、生きるための出口のない洞穴
B 何の食糧もないが、出口が見つかる可能性が1%だけあるトンネル

これは数日前に、絵門ゆう子さんが新聞の「がんとゆっくり日記」というコラムで書いていたものだ。
絵門さんは、Bの方を選ぶとしている。

僕も最初読んだときはBだろうと思ったが、ここにきてAでもいいかな、と思うようになった。

Bの方はわずかではあるが生き延びる可能性があるのだが、僕は素朴な問題として何の食糧もないというのが、ひっかかる。

可能性が1%しかないという出口を探すためには、ある程度の日数を覚悟してかかる必要があるのではないか。

その食糧がないというのは、わずかな希望すら打ち砕くことにならないか。かりに餓えと闘いながら出口を探し回っても、99%という確率で出口は見つからないのだ。

Aの方は出口はないわけだから、数カ月後には食糧が尽きて確実にそこで死を迎える。

この前提には触れられていないが、どちらにしても水と新鮮な空気はあるものとして考える必要があるだろう。

数カ月の食料があれば、その間に人生を清算したり総括したりして、生と死の意味について自分なりに納得出来る境地に達することが出来ないだろうか。

食糧が尽きるころに、予定されていなかった山崩れや地割れが発生して、ないはずの出口がパックリと口を開く可能性だってゼロではないだろう。

この世のすべてのことは、一寸先は闇なのだ。なすべきことをやった後は、じたばたしても始まらないという気がする。

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2004/12/14

核攻撃を受けた場合に風下を避けよだと、マジかよ

なにか悪夢を見ているような違和感に襲われる。政府が14日発表した、有事の際の国民保護指針の要旨だ。

核攻撃を受けた場合の対応として、風下を避ける、雨がっぱなどを着て皮膚からの被曝を抑制する、汚染地域への立ち入り制限を確実に行う、などと示されている。

これって、マジかよ、と思ってしまう。

核攻撃を受けるだろうと政府は本気で思っていて、国民にその時の覚悟をさせておこうということなのか。

それにしても、核攻撃があった場合に、風下を避けるとか雨がっぱを着るとかで、何が防げるというのだろうか。風向きが変わったらおしまいではないか。それに雨がっぱなど持ってない人が大部分ではないのか。

汚染地域への立ち入り制限というが、救護・消火の人たちやボランティア、さらに肉親や知人の安否を気遣って押し寄せる人たちを、どうやって制限していくのだろうか。

さらに弾道ミサイル攻撃があった場合の対応として、迅速な情報伝達体制などを挙げ、屋内への避難や消火活動が中心となる、などとしている。どうやって国民に情報を伝え、どこへ避難させようというのだろうか。

はっきり言って、核攻撃があった場合には、いかなる対応も無意味となることは明らかだ。弾道ミサイル攻撃があった場合も、情報を伝達している時間などなく、避難は全く無意味である。

政治や外交の役目は、こうした事態になることがないように、憲法の精神にのっとって平和外交、友好外交を進めていくことしか道はないのだ。

北朝鮮が念頭にあることは誰の目にも明らかだが、いたずらに強行策をちらつかせて、相手の神経をピリピリさせ、緊張を高めていばいくほどに、こうしたまさかの有事を自ら招き入れる結果になるだけだ。

権力を握っている者たちは、なぜに勇ましくて危険な道を選ぼうとするのだろうか。戦争を避けるために、相手と粘り強く話し合い、友好と信頼を地道に築いていく道が、なぜ弱腰だの臆病だのと非国民呼ばわりされるのだろうか。

為政者たちは歴史から何も学ばない。アメリカと日本が、21世紀を崩壊させる張本人になろうとしている。

アメリカ国民も日本国民も、エゴイズムの殻に閉じこもって、世界の明日を見ようとしない。希望という、かすかな炎は、ほとんど消えかかっている。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「僕が同窓会に不参加の理由は、タバコの煙そして‥」をアップロード)

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2004/12/13

食用だったスギヒラタケの毒キノコ化、背後で進む危機

一昨日の朝日に、スギヒラタケの毒性について、篠山浩文千葉大助教授が書いていた記事が、とても気になっている。

これまで毒性を持たず、スギ林に発生する数少ない食用キノコとして珍重されてきたスギヒラタケが、一転して毒性を持つようになり、人間に急性脳症を引き起こさせたのは、なぜか。

篠山教授は、日本のスギ林の荒廃が進み、スギ林内の生態系が変化していることが背景にあるのではないか、としている。

一方で同教授は、専門家の間では、気温上昇などの環境変化によって、野生の食用キノコが毒キノコ化したのではないか、という見方が出ている点についても、否定出来ないとしている。

僕は、地球環境の悪化によって、これまで毒性を持たなかった植物やキノコが有毒のものに変化しているということは、十分にありうることではないか、と思う。

まだ食中毒などが起きてないため表面化していないだけで、実際には相当の数の植物や真菌類が有毒になっている可能性がある。

動物とりわけ魚介類や虫などでも、思わぬ毒性を持つようになっているものがあるような気がしてならない。

細菌やウィルスとなると、ますますその可能性は高い。

エイズウィルスや鳥インフルエンザなども、地球環境の劣悪化が生み出した変異のように思う。

気温だけに目を向けているうちに、もっと深部で、とんでもないことが進行しつつあるのではないだろうか。

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2004/12/12

学生時代に歌ったロシア民謡『一週間』

なぜだかこのごろ、学生時代に歌った歌を思い出すことが多い。
その一つが、ロシア民謡の『一週間』だ。

日曜日に市場へ出かけ 糸と麻を買ってきた 
テュラテュラテュラテュラテュラテュララ テュラテュラテュラテュラテュララ
月曜日にお風呂をたいて 火曜日にお風呂へ入り
テュラテュラ・・・・
水曜日にあなたとあって 木曜日は送っていった 
テュラテュラ・・・・
金曜日は糸巻きもせず 土曜日はおしゃべりばかり 
テュラテュラ・・・・
恋人よこれが私の 一週間の仕事です 
テュラテュラ・・・・

この不思議な歌詞について、M君とこんな話をした記憶がある。「この2人は水曜日に何をしたんだろう」と僕。「そりゃ、アレに決まってるだろう」とM君。

そうなのかあ。夜通し未来について語り合ったり、星を見て過ごしたり、なんて想像するのはやっぱりウブ過ぎるか。

いまは某大学のトップの地位にいると風のたよりに聞くM君は、僕とこんな話をしたことを忘れていることだろう。

1日は長いようで短い。1週間は短いようで長い。1カ月は長いようで短い。

そして1年は、長くて短い。過ぎてしまえば、1年も7年も13年も30年も、否、40年でさえも、同じ長さのように思える。

記憶に入ってしまえば、どの過去も等価値であり、時系列による優劣はなくなってしまうのだ。

タイムマシンはなぜ作ることが出来ないのか。その単純な理由が最近になってようやく分かった。

未来はまだ何も決まっていないから、行こうにも行くことが出来ない。

過去がどこかに存在していると思うのは幻想で、過去はどこにも存在していないから、行くことが出来ない。

僕たちがよって立つことが出来るのは、常に現在というカミソリの刃先のような、厚さも幅もゼロの一瞬のうつろいだけなのだ。

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2004/12/11

東京国際フォーラムで観た短編映画『この窓、むこうがわ』

東京国際フォーラムで始まった第5回「Movies-High」(ムビハイ)を観に行ってきた。

2日間で14本の短編映画が3回ずつ上映されるのだが、僕のお目当てはCプログラムの中の、迫田公介監督・脚本による『この窓、むこうがわ』である。

なぜこの映画を観に行ったかというと、ここだけの話だが、実は僕の娘が主演で出ているのだ。

10月にテアトル池袋で催された、スーパーインディーズ映画祭「The film School Exhibition」で観客投票第1位となり、さっぽろ映画祭でも入選するなど、高い評価を得ている作品という。

なるほど、Cプログラムの5本の中では最も完成度が高く、心に残る作品だったと思う。タイトルも内容にピッタリ合っていて、「窓」がとても重要な役目を持っている。

娘は、自分を捨ててどこかで生きている父を探そうとするのか、しないのか。重いテーマがからんでいるのに、映像は風のようにさわやかだ。

ほんのちょっとした勇気を出して、一歩前に歩み出ていくことの大切さ。上映時間19分の短い作品ながら、いろいろと感じさせられる佳作だった。

明日は、この作品を含むCプログラムは、午前11時からと午後7時半からの2回ある。当日券1200円。興味のある方はぜひどうぞ。

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2004/12/10

自分はなぜ他の誰でもなく、自分なのかという疑問

最近は、当たり前とも思える根本のところで立ち止まって考えてしまうことが往々にしてある。

宇宙が無から誕生して137億年。さまざまな星の誕生と死滅の繰り返しの中から、46億年前に太陽や地球が生成された。
無機質な灼熱のマグマの海が冷えて、複雑な化学反応の中からやがて原始生命が誕生した。

生命は39億年かけて多岐に渡る進化を遂げ、700万年前に類人猿から猿人が分かれて、やがて原人となる。

原人の中から20万年前に、現世人類が誕生し、1万年前に文明が始まった。

ここまでは、僕は理解できるし、「地球カレンダー」にもまとめている。

だが、ここから先がどうしても僕には分からないのだ。

なぜ僕は、ほかの誰でもなく、いまのこの僕なのか。僕の自意識を持ち、僕の自我を持つ人間は、なぜ他の人でなくて僕なのだろうか。

僕が、この僕という人間の意識であることの必然性が分からない。またそれは誰が決めたのだろうか。

おそらく、古今東西、無数の人たちが、これとまったく同じ疑問に悩まされ続けてきたに違いない。

僕がこの世に生を受けたのは、何兆分の1のさらに何兆分の1よりももっと小さい奇跡のような確率のはずだ。

僕が生まれてこなかった確率の方がはるかに高いのだ。これは、何も僕に限らず、どの個々人にとっても同じことが言える。

生まれてこなかったら、僕はこの世界を認識することは出来ないはずだ。そしたら、この世界は「僕にとって」存在していないと同じことではないのか。

もう一つの疑問は、このような極微小の確率で自分が生まれてきたのは、何のためなのかということだ。

若いころは、何のために生きるかで真剣に悩んだりもした。

だが、いまは何のためか分からなくても、ともかく生きている。何かの役に立てる年齢はとっくに終わっているのに、とにもかくにも生きている。

このこと自体、不思議でたまらず、これでいいのだろうか、と思いつつも。

追記:先月26日にインフルエンザの予防注射をした副作用なのか、しばらく微熱とだるさが取れなかったが、今日はすっきりとした体調になった。インフルエンザの抗体が身体の中に出来たということなのだろうか。体調と精神は、深くシンクロしていることを感じる。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「精神が理想とする世界と、身体の醜さとのはざまで」をアップロード)

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2004/12/09

ブッシュ再選の世界で進む数々の危機、漂う無力感

世界の様相がどうもおかしいと感じるのは、気のせいばかりではあるまい。

米国民がブッシュを再選してから1カ月。世界中の期待に反して、ケリーを当選させることが出来なかった民主党支持者の多くが、いまだにショックから立ち直ることが出来ず、一種のうつ状態に陥っているという。

あと4年もブッシュが世界を支配していくならば、人類の破滅は加速度的に早まっていくことは確実だ。世界は、テロと対テロ戦争の泥沼にますます入り込んでいくだろう。

日本政府は、イラクへの自衛隊派遣の1年延長を閣議決定した。反対運動が盛り上がるでもなく、戦争へのさらなる加担がいともやすやすと通っていく。

一方では、横田めぐみさんのものとされた遺骨が別人のものと分かり、北朝鮮に対する強硬論が高まっている。北朝鮮もなんという愚かなことをやってくれたのだろうか。
これでは、北への経済制裁だけでなく、軍事的にも北のミサイルが飛んでくる前に、先にミサイル基地を叩けという先制攻撃論が台頭するのは時間の問題だ。

さまざまなニュースが、世界の危機を断片的に伝えて、赤信号を点滅させている。

世界の労働者28億人の半数にあたる14億人が、扶養家族分も含めて1日2ドル以下の収入しかなく、5億5000万人は極貧水準とされる1日1ドル以下の収入しかない、と国際労働機関(ILO)が発表した。

さらに世界で毎年500万人以上の子どもが餓死している、と国連食糧農業機関(FAO)が発表した。

地球温暖化が誰の目にも危機的な様相を呈しているというのに、日本の60の経済団体が環境税導入に対して、「経済に大きな悪影響を及ぼす」として総決起大会を開いた。

こうした人間の数々の愚行を前にして、僕のような個人に何か出来ることはあるのだろうか。民主主義なるものの欺瞞。自由なるものの暴力。そして言葉の無力さ。

いままで見る機会がなかった「風の谷のナウシカ」を初めてビデオで見た。映画の世界と現実の世界で進行していることが、二重写しになってくる。
明日からマンガの方を読んでみたい。

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2004/12/08

3カ月先の胃カメラ検査を予約

今日の朝日の社説に「さて、今日は何の日?」とある。

63年前のこの日、日本が真珠湾攻撃を行って、太平洋戦争を始めた日。社説は、そのことを知らない世代が増えている、と書いている。

だが、12月8日と聞いて、ジョン・レノン射殺の日、と答える人も多いのではないだろうか。社説でジョン・レノンに一言も触れていないのが、むしろ気になる。

そんなことを考えているうちに、思い出した。来年3月の胃カメラ検査の予約を、11月か12月に電話でするように病院から言われていたことを、すっかり忘れていた。

あわてて、病院に電話する。3月のお彼岸のころの検査というのに、早い時間帯はもう予約が埋まっている。

胃カメラ検査の当日は、朝から絶食なのでだれもが早い時間帯に検査を受けたがるのだ。

それでもなんとか午後3時ころで予約を入れる。

来年のお彼岸。暖冬ならば、そろそろサクラが咲き始めるころかも知れない。

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2004/12/06

遊泳中の少女らをサメの襲撃から守ったイルカたち

少女3人と海難救助隊員が遊泳中に、体長3メートルのサメが近づいてきた。その時、イルカの群れが現れて、4人を取り囲むようにして一緒に泳ぎ続け、サメの襲撃から守ってくれた。

10月30日にニュージーランドであった出来事で、今朝の朝日新聞が伝えている。

オークランド大学の博士の話として、「イルカには弱者を助ける習性がある」というコメントが載っている。

このニュースは妙に心に残る。イルカが高い知性を持ち、イルカ同士で会話を交わしているだけでなく、人間ともコミュニケーションを取ることはよく知られている。

だが、弱者を守る、というのは単に知性が高いだけでは出来ることではない。

それは、弱い立場にいる者を守ってあげたいという、強い倫理観に裏打ちされた「心」がなければ出来ないことだろう。

イルカに倫理観や心があるのだろうか。僕は、あるのだと思う。

もともとイルカは陸上に住んでいた哺乳類のなかの一部が、再び海での生活を選択して進化していったもので、海の中で高度な知性や感情や心を発達させてきた生き物なのだと思う。

人間とイルカは、1億年もかけて別々の進化の道をたどって、現在に至っている。

人間は知性を過度に発達させてテクノロジーを生み出し、1万年前に自然を征服して生きていく方法を身につけた。

農耕牧畜とは、種としての優位と繁栄を保証する代わりに、生活の場としての自然を切り刻んで消費し続けることにほかならない。

文明とは、自然への支配を前提として成り立っていて、遅かれ早かれ行き詰る宿命を、文明内部に宿している。

イルカは、テクノロジーを生み出す必要性に迫られることなく、自然を征服しない道を選択した。

どちらが幸せな道だったのだろうか。人間はテクノロジーがなければ、せいぜい500万人程度しか地球上に存在できない、とされている。

それでもよかったのではないか。というよりも、その方がよかったのではないか、とつくづく思う。

少女らをサメの襲撃から守ってくれたイルカたちは、人間に伝えたいメーッセージがいろいろあったに違いない。

いや、何も言わずに、黙々と、少女らと一緒に泳ぎつづけてくれたという、そのこと自体に、僕たちはイルカが最も言いたかったメッセージを読み取るべきではないか。

弱いものを守る‥‥。この当然のことを、すっかり放棄して、強者の論理に振り回されている人間たち。

そのことを、そっと諭すようなイルカたちの優しさとともに、海の底よりも深い悲しみが伝わってくる。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、『時間の岸辺から』第68回「安否情報」をアップロード。これは欧州の邦人向け日本語新聞「英国ニュースダイジェスト」に同時掲載)

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2004/12/05

東京で風速40メートル、歩道に枯れ葉散る

04-12-05_15-29.jpg台風くずれの低気圧通過で、東京では未明に風速40メートルを記録。

この嵐で木々の葉が一気に吹き飛ばされ、歩道は散乱した枯れ葉の溜まり場となった。

暖かい南風が吹き込んで、東京では12月としては史上最高の24.8度と、夏日一歩手前の暑さとなった。

明日は一転して北風が吹き荒れ、気温は10度以上も低くなるという。

ブログを開設して5カ月半ほどになるが、どうも「表」のホームページの更新がおろそかになっているのでは、という気がしてならない。

つれづれを更新するのが手一杯で、ほかのページの更新やメンテにまでなかなか手が回らないのが実情だ。

とりわけ気になっているのは、「21世紀の21大危機」のページが、多岐に渡って深刻の度合いを増している「危機」の総体と速度に追いついていないことだ。

「危機」の実相はカテゴリーでくくってブログで丹念に追いつづけるようにするか、それともブログはもう少し肩の力を抜いて表の「危機」のページを活性化させるか、どうしたらいいものだろうか。どちらも一長一短で難しいところだが。

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2004/12/04

ベートーヴェンの「第九」に登場するうじ虫のナゾ

師走といえば日本では、ベートーヴェンの「第九」の季節である。

僕はレコードでは、フルトヴェングラーのものが2種類あるが、生演奏は同時多発テロのあった年に一度聴いたきりだ。

レコードと生演奏では、感動する箇所が明らかに違う。生演奏では、第3楽章の終わり付近、突然曲調が変わって、ファンファーレが高らかに鳴り響くところが、強く印象に残った。

ところで、この第九の4楽章で歌われるシラーの詩には、さまざまな「登場人物」が出てくる。

神、天使、人々、兄弟、私たち、勇士、善人、愚人、娘、妻、など。

この中にまじって、たった一箇所だけ、動物が登場している。なんと、それはうじ虫だ。

「快楽などはうじ虫に投げ与えてしまうと、知と正を司る天使が神のまえに姿をあらわす」というくだりだ。
「うじ虫には官能の喜びが与えられ、天使は嬉々として神のみ前に立つ」と訳しているものもある。

ほかの動物が一切登場しない中で、唯一歌われる栄誉(?)を与えられているうじ虫は、この歌でどういう役目をになっているのだろうか。

この詩でシラーは、快楽や官能というものは、歓喜や知の対極にある好ましくないもの、として位置づけ、それをうじ虫に引き取ってもらおうとしているように読める。

歌詞の前の方に、「世のしきたりがつめたく引き裂いたもの」という箇所があることからして、これらの快楽や官能とは、人間社会をズタズタに引き裂いている愚劣でエゴイスティックなもののことではないか、と僕は思う。

ここでいう快楽とは性的な喜びのことではなく、物質的な欲望、とりわけ金銭欲、飽食欲、権力欲、支配欲、領土欲などのことに違いない。

まさにこの欲望へのあくなき希求こそが、21世紀の現代になっても大国の権力者やリーダーたちを狂気に駆り立て、地球にあまねく歓喜をもたらすことを妨げているのだ、と僕は確信する。

それを押し付けられるうじ虫にとっては、いい迷惑であり、世界中で第九が演奏されるたびに、損な役割を演じつづけなければならないのは、かわいそうな気もしてくる。

人間どうしをいまなお戦わせ続け、人間と他の生き物とを引き裂き続けている物質欲の亡者どもは、うじ虫の前にひれ伏すがいい。

 

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2004/12/03

資源の枯渇を前に、浪費に浮かれる先進国

アメリカではこの季節、ブッシュに投票した者もケリーに投票した者も、クリスマスを前にどちらの区別もなしに、みながプレゼントを贈り合うという一大浪費に浮かれまくる。

本当に生活に必要なものというよりは、クリスマスが過ぎればただのガラクタとなって全く使われないものが、プレゼントの主役だ。ツリーの回りに山のように詰まれたプレゼントの包みを前に、ブッシュもケリーもないバカ騒ぎに酔いしれるアメリカ人たち。

世界の20%の裕福層が86%の富を独占的に消費し、20%の貧困層にはわずか1.3%の富しか回ってこない。これで何がメリー・クリスマスだ。

日本はといえば、米国についで世界2位の残飯大国になりはてている。

コンビニ、宴会場、結婚披露宴などで捨てられる食品廃棄物は、年間1100万トンで世界の食料援助総量に匹敵する。このほかに家庭から1200万トンの食品廃棄物が出る。

合わせて2300万トンになる捨てられる食糧は、日本の国内生産量をはるかに上回る。

アメリカと日本が浪費合戦にうつつをぬかしている間に、資源の枯渇はいよいよ深刻になりつつある。

石油資源の残りは、あと40年分しかない。2050年にはもう石油を使えないかも知れないのだ。

資源の計画的な利用とともに、富の分配のあり方を根本的に見直さない限り、21世紀は100年間続かない公算が強くなっている。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「世界はまるで流砂のごとし、砂の時代の無力感と向き合う」をアップロード)

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2004/12/02

師走というのに、枯れた朝顔につぼみが膨らんで

04-12-02_09-01.jpg師走も2日というのに、ベランダの朝顔が赤いつぼみを膨らませているのを見つけた。

先日、11月23日の勤労感謝の日に咲いた朝顔には驚いたが、師走のつぼみには、驚きを通り越して涙が出そうになってくる。

つぼみが膨らんだ朝顔は、茎も蔓もとっくに枯れていて緑の葉は1枚もない。

このところの晴天続きで、鉢の土は乾燥しきって、一滴の水分もない。12月に入ってつぼみをつけるとは思ってなかったので、僕も水をやるのをとっくにやめている。

東京の朝方の最低気温は7度にまで下がっている。

このつぼみは、これから咲くのだろうか。それとも、咲かないかも知れないことを自覚しつつ、膨らんでいるのだろうか。

たとえ茎や葉がが朽ち果てようとも、咲けるのならば咲いていく。咲けなくても構わないから、つぼみだけでも、ありったけの力で膨らませてみる。

種をつけるかどうかは、もはや問題ではない。誰かが見てくれるかどうかも、どうでもいいことなのだ。

最後の力を振り絞って、かすかな命のともしびが静かに息を引き取るまで、自然のままで生きていく。

このつぼみは、夏の間ずっと鉢に水をやりつづけてきた僕への、朝顔からの最後のメッセージのような気がする。

師走のつぼみよ、希望と勇気をありがとう。もし咲けるものなら、どうか咲いておくれ。

僕も咲くことが許されるギリギリの時まで、この朝顔のように咲いてみたいと思う。

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2004/12/01

すべての存在をしばりつける重力とは何だろう

04-12-01_14-46.jpg師走に入った新宿駅東南口。ルミネ2の壁面に、2人の忍者が張り付いている。

屋上につながれた1本のロープにぶら下がって、ビルの壁面を自在に上下左右に移動していく。

プレステ2の巨大な広告ボードの取り付け作業らしい。下では、サラリーマンやOLたちが足をとめて見上げている。

この作業は重力に抗している、というよりは、重力とうまく折り合いをつけ、重力と仲良くしていかないと、決して出来ないのではないか、という気がしてくる。

重力って何だろう。万有引力によると一言でいわれるが、どうやって離れた物体同士が力を及ぼし合うのか、不思議な気がする。

最近読んだ本には、重力とは時空のさざなみである、と書いてある。物質の質量によって、時空がゆがむ。

そのゆがみが、さざなみとなって光速で伝わっていく。波を伝える海水にあたるものは、真空それ自体なのだ。

時空のさざなみは、真空のさざなみとも言い換えられる。真空は時間と切り離すことが出来ず、真空と時空はイコールなのだ。

僕たち人間も、動物たちも植物も、海水も雲も大気も、そして地球それ自身でさえも、時空のさざなみによって、地球の中心方向に絶えず引き寄せられている。

時空のさざなみがあるからこそ、太陽も地球も丸く固まってばらばらになることがない。時空のさざなみは、地球の進化を促し、無数の命をはぐくんできた。

物質は重力の縛りから逃れられないが、精神や思考や感覚や愛は、時空を自由に飛翔してまわることが出来る。

脳や心は、重力から解放された宇宙なのだ、と僕は思う。

冒頭の写真の下には、都心では数少ない大階段がある。階段下の広場は、バンド演奏をするグループやティシュなどを配る人たち、イラク撤退を呼びかける市民グループなどで、いつもごった返している。

待ち合わせの人たち。手をふって別れる人たち。ここには人生のさざなみが、幾重にも重なって渦となっている。

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