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2004/12/24

神の名でイラク人10万人を殺して、なにがクリスマスか

クリスマスイヴというのに、心が晴れない。かつては、クリスマスも歳末の街の風物詩と割りきっていたが、今年はどうもそんな気分になれない。

そのひとつには、クリスマスのそもそもの意味であるキリストの誕生を、なぜ僕たちまでがバカ騒ぎして祝わなければならないのか、という疑問だ。

とりわけ、今年はキリスト教なるものに対して、強い違和感を感じる。

昨年、ブッシュがイラク戦争の開戦を強行したのもキリスト教における神の名においてであったし、大義のない誤れるイラク戦争を率いたブッシュを大統領に再選した原動力も、米国内のキリスト教右派だった。

敬虔なクリスチャンには悪いが、キリスト教の神はいいように戦争のダシに使われ、去年3月からに限っても、神の名の下でイラク人10万人が殺されている。

アメリカのいう神とは、人殺しの神であり、虐殺でもなんでも平気で行う神である。それは、アメリカの、アメリカによる、アメリカのための神なのだ。

バチカンも同じ穴のムジナだ。アメリカの軍事暴走が、キリスト教の教えに相容れないものであるなら、ローマ法王が身を張って立ちはだかることだって出来たはずだ。

プロテスタントとカトリックの違いがどうなのかは知らぬが、キリスト教の神というのは、この2000年間、人類を救ったためしが一度もない。

そんなあやしげな、権力むき出しのキリスト教の最大の祝日を、僕たちまでが能天気に祝ったりはしゃいだりするのは、おかしいと思わないか。

イラク戦争に反対し、イラクからの米軍と自衛隊の早期撤退を求める立場として、今年のクリスマスはむしろ神に抗議したい気持ちである。

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コメント

>アメリカのいう神とは、人殺しの神であり、虐殺でもなんでも平気で行う神である。それは、アメリカの、アメリカによる、アメリカのための神なのだ。

同感です。自分は短気で欠点が多い人間で本当に神さまの前に立てない自分をふりかえりますが、すこしでもそういう気持ちがあれば、イラクの子どもたちのことが考えられるのではないでしょうか。自分だけが偉い自分だけが選ばれているというパリサイ人をキリストは「白く塗った墓」と嫌われたはずです。教会の礼拝中、イラクの子どもたちと一緒に爆撃にあっているイエス様が思い浮かんで泣いてしまいました。

投稿: siyajkak | 2006/04/06 20:30

ちなみに弁護するなら、アメリカでイラク攻撃に抗議した牧師は大勢いました。ブッシュと同じ教派の牧師もそのために逮捕されました。日本からも「人間の盾」になるためにイラクへ行った牧師もいました。一部マスコミや一部の国民から意味がないとバカにされましたが。500年前のスペイン人がマヤ、アステカ、インカの人々にやったことをそのまま感じます。異教徒なんかどうでもいい、自分たちは選ばれていると...そのように当時植民地支配に狂奔したヨーロッパ人がいたと同時に聖書に照らしてそれはおかしいと抗議したラス・カサスのような司教や映画『ミッション』の宣教師のように原住民のコミュニティを守るために身体をはった宣教師たちの姿に十字架のキリストを思い浮かべます。

投稿: siyajkak | 2006/04/06 20:44

siyajkakさん、いろいろと考えさせられるコメント、ありがとうございます。
僕は特定の宗教は信じていませんが、現代の世の中において宗教的感情はとても大切なものだという気はします。宗教はどの宗派であっても、人類全体あるいは生き物全体を包容する視点こそが不可欠であって、自分たちだけが神に選ばれた者であるという偏狭な傲慢さを振りかざす宗教は、宗教の名に値しないと思います。
キリスト教の各宗派も、仏教もイスラム教もユダヤ教も、それ以外の多くの宗教も、すべて自分以外の宗教を認め合い、交流や提携が出来るようになったらいいのに、と心から思います。

投稿: BANYUU | 2006/04/06 22:59

BANYUUさん>
お返事ありがとうございます。旧約聖書にも新約聖書にも神さまが、へブライ人たちが建てた神殿を呪って、放棄される運命へと導くという記述があります。アメリカ人の宗教右派の人々の心の中にある「神殿」というのはそういう放棄されるべき神殿なのだろうな、と感じます。一見して敬虔な宗教右派の人々の姿は、ユダヤ教の改革派で厳格な生活態度を固持したパリサイ人の姿と非常に良くダブります。自分は歴史が非常に好きなので、歴史の中に働く神様とか人間の罪深さとか弱さとか素晴らしさとか感じます。それでますます歴史狂になる...

投稿: siyajkak | 2006/04/06 23:43

siyajkakさん、どうも。僕は歴史的なことにはまったく疎いのですが、宗教の歴史というのは、分裂と抗争、異端との戦いの歴史のような気がしてなりません。なぜこんなに多くの宗教や宗派が、これほどまでにピリピリして異宗教や異端を敵視し、一切の妥協も連携も認めないのでしょうか。一つの宗教がその教義を厳格に守ろうとすればするほど、闘争的になっていくのは、どの宗教も結局のところ、偏狭なエゴイズムから脱却することは出来ないのだ、という思いがします。

投稿: BANYUU | 2006/04/08 16:36

BANYUUさん>

>宗教の歴史というのは、分裂と抗争、異端との戦いの歴史のような気がしてなりません。

それはまちがいなくおっしゃるとおりでしょう。
ただ、自分は、宗教がとは思いません。人間の心に巣くうもの、自分を知恵あるものと考え神のように高いものと考えることで、すべて問題が起こっているのです。政治制度にしろ科学技術にしろそれを使う人間の心によって有害なものになったり素晴らしいものになったりします。それから生まれてから今日まで心のすみずみまで完全に正しい人なんていないと思います。

今日は、このテーマにも深い関連がある科学と宗教(カトリック)の問題にも触れているダン=ブラウンの『天使と悪魔』を読みふけってしまいました。ご存知のように著者は『ダ=ヴィンチ=コード』でも知られている人です。

投稿: siyajkak | 2006/04/08 23:20

結局のところ、人間の歴史そのものが、戦いの歴史であり、征服と排除の歴史だったのですね。宗教は、その投影なのだろうと思います。悲しいことですが、それは数千年前も今も、ほとんど変わっていませんね。

投稿: BANYUU | 2006/04/09 15:40

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受信: 2005/01/09 19:42

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