ベートーヴェンの「第九」に登場するうじ虫のナゾ
師走といえば日本では、ベートーヴェンの「第九」の季節である。
僕はレコードでは、フルトヴェングラーのものが2種類あるが、生演奏は同時多発テロのあった年に一度聴いたきりだ。
レコードと生演奏では、感動する箇所が明らかに違う。生演奏では、第3楽章の終わり付近、突然曲調が変わって、ファンファーレが高らかに鳴り響くところが、強く印象に残った。
ところで、この第九の4楽章で歌われるシラーの詩には、さまざまな「登場人物」が出てくる。
神、天使、人々、兄弟、私たち、勇士、善人、愚人、娘、妻、など。
この中にまじって、たった一箇所だけ、動物が登場している。なんと、それはうじ虫だ。
「快楽などはうじ虫に投げ与えてしまうと、知と正を司る天使が神のまえに姿をあらわす」というくだりだ。
「うじ虫には官能の喜びが与えられ、天使は嬉々として神のみ前に立つ」と訳しているものもある。
ほかの動物が一切登場しない中で、唯一歌われる栄誉(?)を与えられているうじ虫は、この歌でどういう役目をになっているのだろうか。
この詩でシラーは、快楽や官能というものは、歓喜や知の対極にある好ましくないもの、として位置づけ、それをうじ虫に引き取ってもらおうとしているように読める。
歌詞の前の方に、「世のしきたりがつめたく引き裂いたもの」という箇所があることからして、これらの快楽や官能とは、人間社会をズタズタに引き裂いている愚劣でエゴイスティックなもののことではないか、と僕は思う。
ここでいう快楽とは性的な喜びのことではなく、物質的な欲望、とりわけ金銭欲、飽食欲、権力欲、支配欲、領土欲などのことに違いない。
まさにこの欲望へのあくなき希求こそが、21世紀の現代になっても大国の権力者やリーダーたちを狂気に駆り立て、地球にあまねく歓喜をもたらすことを妨げているのだ、と僕は確信する。
それを押し付けられるうじ虫にとっては、いい迷惑であり、世界中で第九が演奏されるたびに、損な役割を演じつづけなければならないのは、かわいそうな気もしてくる。
人間どうしをいまなお戦わせ続け、人間と他の生き物とを引き裂き続けている物質欲の亡者どもは、うじ虫の前にひれ伏すがいい。
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