冬至の太陽の真後ろに、夏至の日の地球があった
僕はいつも、冬至の日になると太陽を見る。
太陽を見る、という言い方は正確ではないだろう。太陽の真後ろ、地球と太陽との距離を、そっくり反対側に延ばしたあたりの宇宙空間に思いをはせる。
僕はまぶしく輝く太陽の真後ろに、ちょうど半年前の夏至の日に、僕たちを満載した地球が通っているのが、見える思いがする。
あれから6カ月かけて地球は太陽の周りを半周する旅を続けて、いまちょうど夏至の時とは反対側に来ているのだ。
夏至の日の地球はもちろん、今の僕たちから見えようはずもない。
だがもしも、0.5光年離れた宇宙空間から、とてつもない精密な望遠鏡を向けたならば、半年前の地球の姿を「リアルタイムで」見ることができるはずだ。
そこには、この半年間に戦乱や災害、病気や事故で亡くなった無数の人々が、まだ元気で生きている光景を見ることができるだろう。
2004年6月21日の僕が、そしてあなたが、そこにはいるはずだ。
過去に発せられた光は、光速で宇宙空間を旅していく。タイムマシンは作成不可能でも、過去が発した光はそのまま真空を伝わって広がっていく。
いまから半年かけて、地球は太陽の周りを半周して、また来年の夏至の日には今見ている太陽の真後ろの位置にたどり着く。
宇宙のどの場所からも、どんな精密な望遠鏡を使っても、これから先の地球の様子を見ることはできない。たとえ1日後であっても、否、5分後であっても、未来の光景は観測不能なのだ。
時間は旅人である。宇宙も銀河も太陽も地球も、生き物たちも人間も、みな時間とともに旅をしている道連れに過ぎない。
何のために旅をしているのか。旅の目的はあるのだろうか。人はなぜ苦しみを背負って旅をしているのだろうか。
ユズの香りをかぎながら、広大な宇宙と卑小な自分のかかわりに思いをはせて、せつなくなる。
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