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2005/01/31

新宿三越がデパ地下の食品売り場を廃止

05-01-31_12-14東京の街は変化が速く、ちょっと見ないうちに、いろいろなものが変わっていく。

ジュンク堂書店に寄ろうと思って新宿三越に入ったら、なんと地下の食品売り場そのものが、1月23日で廃止になっていた。

これには驚いた。新宿三越の食品売り場は、確か2、3年前に大改装して新しい店も加わって、伊勢丹と張り合う大食品売り場にしたばかりなのに、なぜ人気のデパ地下食品売り場を廃止したのだろう。

考えられることは、伊勢丹の食品売り場との戦いに敗れてしまい、白旗を掲げてしまったということだ。

だが、去年秋に新宿マイシティ地下の食品売り場が1店だけを残して全廃となり、ファッションフロアに変身してしまったことを考えると、相次ぐ地下食品売り場のクローズは、消費者にとっては残念な気もする。

これで新宿デパ地下戦争は、東口は伊勢丹が制圧し、西口は広大な小田急と個性的な京王が共存。南口はタカシマヤの牙城、とすみ分けがはっきりしてきた。

新宿三越の地下もやはり、女性向けのテナントを集めたファッションフロアになるのだろうか。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「2月が28日しかない理由と、なぜ逃げていくのかの考察」をアップロード)

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2005/01/30

録りためたVHSテープをDVD化する面倒

去年1月に買ったDVDレコーダーのハードディスクに録りためていた音楽番組などを、ようやく全部DVD-Rにダビングした。

これでハードディスクはすっきりし、録画を入れて焼いたDVD-Rが増えてきた。

問題なのは、ヒデオ時代に録りに録ってたまっているVHSテープをどうするかだ。

これまでにも、二度と見ないであろうテープは何十本とまとめて捨ててきたのだが、それでも保存しておきたいテープが600本から700本くらいある。

映画とクラシック音楽が大半を占めていて、とくにクラシック音楽の演奏番組は捨てるわけにはいかないものばかりだ。

家電量販店のDVDデッキの売り場には、VHSとDVDの両方の機能を備えていて、これまでに録りためたVHSからワンタッチでDVDにダビング出来る機種がいろいろ出ている。

しかし、ワンタッチとは言っても結局はテープに録画されていると同じ時間かかってDVDにダビングするしかなく、決して高速ダビングが出来るわけではない。

1本のテープに2時間番組が録画されていれば、それをDVDにダビングするのに再生するのと同じだけの2時間かかるということなのだ。

600本以上のテープを、これから一本一本ダビングしていくだけの気力はないし、いまからその機種のDVDデッキを買うのは無駄になる。

かといって、VHSテープのまま持っているのは置き場に困るし、ビデオデッキの寿命が来た時にお手上げになる。

2時間のVHSテープを時間通りに再生することなく、10分程度でDVD-Rに高速ダビング出来る機種が出てくれたらいいのにと思うのだが‥。

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2005/01/29

RSSリーダーをインストールしてみた

ブログを始めて7カ月にもなるのに、RSSというものを使ったことがなかった。

RSSなる便利なものがあって、ココログの記事もRSSに対応している、というくらいは聞き知っていたものの、どうやって使うものなのか分からなかった。

たまたま今日の読売夕刊に、「ブログを効率よく閲覧 RSSリーダー」という記事があって、これをみると、RSSリーダーにはウェブサービスタイプとソフトウエアタイプがある、と書かれている。

なるほど、RSSを利用するには何もしないでいてはダメなのだと知る。

記事にあったウェブサービスタイプは入会登録などが必要とあるので、これはパス。ソフトウエアタイプには有料や無料やいろいろある、と書かれていて無料のものとして「goo RSSリーダー」が載っている。

ほかに無料のものではどんなものがあるのか知らないが、とにかくgooにアクセスしてRSSリーダーをダウンロードしてインストールしてみる。

それでデスクトップに出来たアイコンをクリックして、「キーワード設定」というところで、何かキーワードを入れることにする。

とりあえず「海面上昇」と入れてみる。すると、左サイドの一番上に「海面上昇」と現れ、37件の記事があると表示される。右側の上半分に、これらの記事の見出しとブログのアドレスが表示される。

gooはもちろんだがココログやエキサイトをはじめRSSに対応しているすべてのブログについて、「海面上昇」の文字を含む最近の記事が一目で分かる。

見出しにカーソルをあてれば、下に記事本文が写真やコメント、トラックバックも含めて現れ、ブログを閲覧すると同じに読むことが出来る。

そうかあ。RSSとは便利なものだなあ、と遅まきにしてようやく気づく。

しばらくの間、キーワードに、地球カレンダーやBANYUUと入れてみて遊ぶ。僕のこのブログや、リンクしているブログの記事などが出てくる。

いろいろな使い方があるのだろうが、知りたいキーワードが書かれたブログをキャッチするには、十分使えそうなので、これからいろいろと活用していきたい。

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2005/01/28

ベン・ハーの戦車シーンで死者が出たって本当?

去年1月に、パイオニアのDVDプレイヤーを買って、映画やら音楽番組やらを録画してきたのはいいが、それを見る時間もないまま、ハードディスクがそろそろ容量に近づいてきた。

考えてみれば、録画したものをこまめにDVDに焼いていたのは、去年の4月ころまでで、5月以降はハードディスクに録りっ放しのままだ。

そこで、今日はDVDに焼く必用にあるものを全部チェックしてみた。

大物は、3時間半ほどになるウィリアム・ワイラー監督、チャールトン・ヘストン主演のアカデミー賞11部門受賞映画「ベン・ハー」だ。

劇場上映では、途中に10分間ほどのインターミッション(休憩)が入るのが普通で、衛星放送のものも当然、休憩が入っていると思っていた。

ところが、早送りで確かめたところ、なんと休憩が入っていないのだ。

リアルタイムで見ている人はトイレに困るだろうし、高画質でDVDに焼くには1枚に入らないため、自分で2つに分割しなければならない。

かの有名な4頭立て馬車(戦車)による競走シーンは、2つに分割した後半のクライマックスとなっている。

この戦車シーンでスタントマンに死者が出たという話を、もうずいぶん前に何かでチラと読んだ記憶があり、本当かどうか気になっていた。

ネットでいろいろ検索してみると、死者が出たというのはワイラー版の「ベン・ハー」ではなくて、それに先立って製作された白黒の「ベン・ハー」の方らしい。こちらのサイトなど参考。

僕は白黒のベン・ハーは見てないのだが、この白黒版の戦車シーンも凄い迫力だという。

ワイラー版の「ベン・ハー」も、特撮や合成などを使わず、ましてCGなど考えられない時代の映画だけに、危険と隣り合わせの命がけの撮影だったのではないか、と想像する。

この2つのベン・ハーの、馬車シーンの撮影裏話をもっと知りたいものだ。

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2005/01/27

人間死ぬ時は裸だが、小千谷の旅館入浴客の災難

今日のブログは、「表」のつれづれ草と連動して書く。

「人間、死ぬときは裸」とよく言われる。

どんなにお金をためても、勲章をもらっても、あの世に持っていくことは出来ない、という悟りのような意味で使われる。

また、人間生まれる時も死ぬ時も裸、という言い方もよくされている。

世界一の億万長者でも、権力の頂点を極めた者も、広大な家屋敷と金銀財宝に囲まれた者も、死ぬ時は例外なく裸なのだ。

こうしたしみじみとした教えも、旅館の風呂に気持ちよく入っている時に、屋根が突然落ちてきて裸のまま死ぬとなると、あってはならない悲劇となる。

昨日、新潟県中越地震の被災地の小千谷で、旅館の屋根が雪の重みで崩落して、男性入浴客2人が下敷きになって死亡した。

旅館に来た客が、最もリラックスして生きている喜びを感じるのは、お風呂に入っている時だろう。

だれもが裸で安心しきっていて、身も心も解き放たれて無防備になれる数少ない愉悦の場なのだ。

屋根が落ちてきた時は、さぞ驚いたことだろう。裸で押しつぶされるのは、さぞ痛かったに違いない、と想像する。

死ぬ前にものを考える瞬間があったとしたら、せめて何か身にまといたい、ということだったのではないか。

素っ裸のまま、あの世行きとは、あまりにも酷過ぎる。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「一寸先は闇の人生、何の変哲もない平凡に日々の至福」をアップロード)

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2005/01/26

プラズマ対液晶、薄型大画面テレビの勝負は

家電量販店に行ったついでに、久々に薄型大画面テレビの売り場をのぞいて見た。

半年ほど前に見た時は、液晶とプラズマがほぼ互角の闘いだったのが、どうやら液晶に軍配が上がりつつあるような感じだ。

店の方の力の入れ方が圧倒的に液晶に傾いていて、品揃えも売り場のスペースも、液晶8に対してプラズマ2程度なのだ。

明るさや鮮明さ、解像度など、どれをとっても、その差は歴然としていて、同じ映像を多数の画面で流しているから、消費者の目はごまかせない。

売れ筋ナンバー1の45インチ液晶テレビが78万円ほどで、ポイントが20%ついた上に、さらに2万円引き、と書かれている。

あと2、3年もすれば、もっと価格は下がるだろうな、とも思う。

だがそれ以前の問題として、僕の家のテレビがなかなか故障しないということがある。

なんと1987年製の三菱の37インチで、今年で使用18年目を迎える。

ブラウン管の寿命は普通10年といわれているので、これは驚異的な耐久性なのだが、そもそも僕があまりテレビを見ないことが、ブラウン管の寿命を延ばしていることは間違いない。

数年前に、スイッチを入れてもブラウン管がすぐに暗くなって消えるトラブルが1カ月ほど続き、いよいよお陀仏かと覚悟したのだが、修理もしないのに自然に回復して今に至っている。

液晶テレビに買い替えようにも、この37インチが健全なうちは、これを捨てるわけにはいかない。

そうこうしている間に、僕のテレビ離れは一層進んで、見ないからますます寿命が来ない。

ということは、そもそも液晶テレビに買い換えても、僕はほとんど見ないかも知れない、という気になる。

すべての地上波アナログ放送が停止して、どの局のテレビも地上波デジタルかBSやCSでしか見られなくなるのは、2011年とされている。

ずいぶん先のように思っていたが、あと6年後に迫ってきた。いまあるテレビがそれまで寿命が持ったら、どうなるか。

このままでは、本当にあと6年くらいは持つかも知れない。

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2005/01/25

家のすぐ裏で火事、周りは消防車だらけ

050125fire今日の昼前、ベランダの外がやけに白っぽいので、戸を開けてみたら、僕の家のすぐ裏が火事だ。

アパートなのか戸建住宅なのか分からないが、2階建てで屋上にはだれか人が一人いる。

もうもうたる白煙がたちこめ、やがて消防車がサイレンを鳴らしながらワンサとかけつけてきて、放水を始める。

駆け回る消防官、右往左往する近所の人たち。警察官もかけつけて来る。上空には報道のヘリが飛んでくる。

僕はベランダから、ビデオを回す。ケータイで静止画を撮るという考えはまったく浮かばない。

15分ほどで火災は鎮火したが、後から後から消防車がどんどんかけつけて来て、僕の家の周囲は消防車だらけで、前の道路は車両が通行止めとなる。

僕の家の裏では、数年前にも木造アパートが全焼したことがある。空気が乾燥しているこの時期、火事はこわい。

今回火事になった家では、滝のように放水を浴びて、家具も何も水浸しになっていることだろう。

ブログにこの火事の話を書くにあたって、写真がないのにハタと困ってしまった。

ビデオの動画はあるが、そこから静止画を一枚切り出す作業が意外に難しかった。まずパソコンに動画を取り込み、こんどは動画から任意の場面を静止画にするソフト(楽ViewVM)で、悪戦苦闘しながらようやく写真を切り出した。

DVDに焼いたものから静止画をキャプチャーするのは簡単だが、DVDに焼くまでもない場合には、今回の方法が手っ取り早い。

静止画キャプチャーのノウハウが分かったので、これからは手際よくビデオカメラで撮った映像から静止画を取ることが出来ると思っている。

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2005/01/24

未使用の年賀はがきを切手に交換

ずいぶん前になるが、11月に買った年賀はがきが年末に足りなくなってしまい、郵便局でもコンビニでもどこでも売り切れていて、困ったことがある。

それ以来、年賀はがきは毎年かなり多めに買って、余すようになった。

余ったはがきは、正月が過ぎてしまうとなんとなく使いづらい。こうして使わない年賀はがきが、どんどんたまってきた。

今日は一念発起して、ここ数年分の余った年賀はがきを集め、さらに書き損じのはがきも加えて、郵便局に持っていって切手に交換してもらうことにした。05-01-24_18-10

今年の年賀はがきについては、その前にお年玉の当選番号チェックをして、切手シートが4枚当選しているのを見つけた。

郵便局では、まず当選した切手シートをもらい、次に大量の未使用・書き損じの年賀はがきの交換を頼んだ。

切手シートが当たったうちの3枚は未使用で、これはどういう扱いになるのかと見ていたら、これも切手シートをもらった上で交換してもらえるのだ。

交換手数料は1枚につき5円。高すぎる気もするが、窓口の人は枚数を4回も5回も数えなおしているので、それなりの手数がかかっているのだな、と納得する。

結局、80円切手101枚、50円切手31枚を受け取ることが出来た。

郵便局では、受け取った未使用・書き損じの年賀はがきをどうするのだろうか。書き損じには、プライベートな文面などが書かれているので、いささか気にならないでもない。

どこかに集めて処分して、再生紙にでもするのだろうか。

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2005/01/23

30日のイラク国民議会選挙は内戦の危険

いよいよ2005年が本格的に動き出した感じがする。

当面の最大の波乱要因は、30日に予定されているイラク国民議会選挙だろう。

イスラム教スンニ派勢力が不参加・ボイコットを決めている中で、選挙は予定通り行われるのだろうか。

イラク国内では、この選挙の正当性を粉砕するテロなどがますます激化して、手がつけられない状況になっている。

選挙に向けて国際監視団を派遣する予定だった国連は、「武装勢力のテロ多発で、第三者による監視はほぼ不可能だ」として、監視団は派遣されない見通しだという。

治安の悪化でイラク人監視員の安全確保も難しくなり、監視員がいないまま選挙に突入する地域が広がる懸念が出ている。

このまま選挙を強行した場合に、選挙の正当性をめぐって、イラク国内が本格的な内戦となることは、誰の目にも予想される。

2期目のブッシュはなんとしてでも選挙を行って、イラク戦争によって民主主義が実現したことを世界にアピールしたいところだが、これは極めて危険なカケといえる。

選挙の失敗が、世界の不安定をいっそう加速させ、イラクが第二のベトナムと化する恐れは現実のものとなりつつある。

穏健派といわれたパウエル去り、ブッシュの分身といわれる強硬派のライスでは、米軍がイラクから引き上げる時期を見誤って、とんでもないことになるかも知れない。

オランダ軍が3月でサマワから撤退した後、内戦と反米で泥沼の戦争状態となる中、日本の自衛隊は撤収の時期を逸してしまう恐れもある。

日本はアメリカと一蓮托生、星条旗とともに玉砕するつもりなのだろうか。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、『時間の岸辺から』第70回「52分授業」をアップロード。これは欧州の邦人向け日本語新聞「英国ニュースダイジェスト」に同時掲載)

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2005/01/22

「重要なお知らせ」を乱発する狼少年たち

「重要なお知らせ」と赤で書かれた郵便物がくる。

何だろうと思って真っ先に開封すると、またもや生命保険や傷病保険のダイレクトメールだ。

こういうケースが最近は実に多い。まさに「重要なお知らせ」の粗製濫造、安売り、乱発だ。

メールでも、タイトルが「重要なお知らせ」とだけになっているものが、増えてきた。このタイトルならば、絶対に本文を読むに違いない、と送る側は確信しているに違いない。

しかし、この手のメールも、本文はほとんどが、融資の案内やエロサイトの紹介などで、あきれてしまう。

こうした狼少年っぽい手口が氾濫していけば、本当の「重要なお知らせ」を見逃してしまう恐れがある。

見逃すどころか、僕はもう「重要なお知らせ」と書かれた郵便物は、開封しないでそのままゴミ箱に捨てるようになった。

同様に、「重要なお知らせ」というタイトルのメールも、本文を読まないで他のスパムメールと一緒に、即刻削除している。

こうして僕が読まない「重要なお知らせ」の中には、本当に重要なお知らせがないとも限らないが、それはそれで仕方がない。

狼少年たちはこうして、通信という最も重要な伝達方法を貶め、社会を蝕みつづけている。

言葉が本来の意味を伝えなくなった時、その社会は機能を失って死滅するしかないように思う。

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2005/01/21

明日はカレーライスの日だそうだ

定価0円の情報誌「R25」を見ていたら、明日1月22日は「カレーライスの日」とある。

全国小中学校栄養士協議会が1982年に制定し、この日は全国の給食をカレーライスにすることを提案したとある。

これまでどのくらい実施されてきたのだろうか。明日は土曜日なので、給食もなにもないが、今日に繰り上げてカレーライスにした学校もあるのだろうか。

僕が子どものころに、学校のバザーではライスカレーが定番だった。いまでいう田舎風カレーというのか、どろりとしたカレーが、ご飯にかかっていた。

ご飯にかけられているのをライスカレーといい、ご飯とカレーが別々に盛られているのをカレーライスという、とよく説明されるが本当だろうか。

僕は学生時代に、学食のカレーライス(ご飯の上にかっていたが)に、生卵を乗せてグチャグチャにかき混ぜて食べるのが好きだった。

大阪に行くと、生卵を落としたカレーライスがレストランのメニューにあるのを時々見かけて、懐かしくなる。

話は違うが、遠藤賢司の「カレーライス」というフォークソングは、小市民的無関心層の気分をけだるく歌っているようで、いきなり三島由紀夫の切腹事件を思わせる歌詞がなにげなく出てきて、びっくりさせられる。

数年前まで僕は、カレーをむしょうに食べたくなることがあって、月に何回か食べていたが、このところほとんど食べなくなった。

ハヤシライスやオムライスはたまに食べるのだが、自分でも気づかないうちに嗜好がかわってしまったのかも知れない。

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2005/01/20

火星で見つかった隕石の写真に思う

NASAの火星探査車オポチュニティーが、火星の地表で見つけた隕石の写真が、今日の夕刊各紙に載っている。

無人の世界に、ぽつんと落ちているバスケットボール大の隕石。大小の穴がたくさん開いている隕石の写真は、極めて鮮明で、これを見ていると不思議な気持ちになってくる。

オポチュニティーは、この隕石を見つけると、表面のほこりをブラシで掃除して、写真を撮影したという。

人間も生物もいない(たぶん)世界で、オポチュニティーが一生懸命、見つけた隕石の表面を掃除してきれいにしている光景を想像してみる。

オポチュニティーは、もちろん視覚センサーを備えているのだが、思考や意識はどの程度あるのだろうか。

幾分でも、思考する能力があるならば、「コレハ、ナンダロウ。キレイニ、ミガイテカラ、シャシンニ、トロウ」などと、つぶやいたのかも知れない。

この隕石は、いつごろ落ちたものだろうか。火星に落下した時は、どんな様子だったのだろうか。

火星には大気がないから(すべて失われてしまった)、大気との摩擦で流星として輝くこともなく、突然、音もなく、というよりも大気がないから音も出ない状態で、すっ、と地表に落ちたに違いない。

衝撃で砕け散った様子も見られないが、地表の方は穴が開かなかったのか、不思議だ。

落下の様子を見ていたものは、たぶん誰もいないし、何者も見ていなかった。

そしてこれまで、隕石は長い長い火星の時間をだれにも見つけられることなく、落ちた場所にじっとしていたのだ。

地球以外の惑星で隕石が見つかったのは、これが初めてという。

土星の衛星タイタンの鮮明な写真にも驚いたが、この世界は地球の外にも大きく広がっていて、とてつもなく茫漠として荒涼としているようだ。

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2005/01/19

ドストエフスキー「悪霊」、登場人物をメモしながら読了

ドストエフスキーの「悪霊」を半月かかって読み終えた。

この小説の感想は、「表」のつれづれ草に書いたので、ここでは「読み方」についてちょっと触れてみたい。

先に、同じ作家の「白痴」を読んだ時に、僕には大きな反省点があった。

それは、読み進むにつれて、前に出てきたはずの人物がしだいに分からなくなり、何度も何度もページをさかのぼって、その人物が最初に出てきたところを探し出しては、どういう人物なのか確認しなければならなかったことだ。最初に登場したページを探していくのは、非常に時間がかかり、なかなか見つけることが出来ない。

ドストエフスキーに限らず、トルストイでもそうなのだが、ロシアの長編小説は登場人物をいかに把握しながら読み進むことが出来るかが、理解のカギを握るといっていい。しかも、小説の中では同じ人物が、ムイシュキンと書かれていたり、レフ・ニコラエヴィチと書かれていたり、あるいは単に公爵とだけ書かれていたりする。

昔、全集もので読んだ「罪と罰」などは、冒頭のページや栞などに、登場人物一覧が書かれていてそれを照合しながら読んだような記憶があるが、文庫版には登場人物一覧はない。

そこで僕は、今回「悪霊」を読むにあたって、新しい人物が登場するたびに、ノートに人物の名前とページナンバーを鉛筆でメモしていくようにした。フルネームが後になってから書かれることもあるので、その場合は、フルネームが登場したページナンバーも追加していく。肩書きは、数文字で書けるものは「小役人」「商人」などと簡単に書く程度にする。

これをやったおかげで、人物が分からなくなった時には、まずノートで最初に出てきたページを確認し、そのページに戻ってどういう人物なのかを直ちに確かめることが出来た。

読み終えて、改めて数えてみたら、名前が出てくる登場人物だけで、ノート4ページ分、総勢97人にも上っていた。

インターネットでは、ドストエフスキーとトルストイの主要な長編小説について、登場人物一覧を記載しているサイトもあるが、人物についての親切な説明がかえって先入観となる恐れがあり、ネタバレの危険もあるような気がして、あえて見なかった。

面倒ではあるが、自分でノートに名前を書いていく方が、頭に入るように思う。

読書とは、作者と読者のデスマッチであり、精神の格闘なのだ。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「ドストエフスキーの『悪霊』を読了、その現代性と神について」をアップロード)

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2005/01/18

懐かしのピンク・レディー、育ての親が死去

ピンク・レディー育ての親として知られる相馬一比古氏が亡くなった、と夕刊各紙が伝えている。まだ60歳という若さなのに、咽頭がんという。

僕は、相馬氏については詳しいことは知らないが、ピンク・レディーという懐かしい名前に、あの数々のヒット曲と、70年代が蘇ってくる。

ペッパー警部、ウォンテッド、カルメン77、SOS、渚のシンドバット、サウスポー、モンスター、UFO、透明人間、カメレオン・アーミー、等々。

時代は高度成長のさなか、全国で学園紛争の嵐が吹きまくり、日本中が活気と熱気に溢れていた。

ピンク・レディーの、太ももをあらわにして全身で発散する振り付けは、日本中の子どもたちが真似ていた。

「渚のシンドバッド」の「セクシ~、あなたはセクシ~」のところでは、女の子たちがスカートのすそをずり上げ、しなをつくって手を添えるポーズを上手にまねていた。

いいなあ、ピンク・レディー。これほど時代とともに駆け抜けたスーパー・スターはいない。これに匹敵できるのは山口百恵くらいのものだろう。

日本が活気を失うとともに、もはやスーパー・スターも出現しなくなった。昨今のスターたちは、いかにもチマチマしていて小ぶりだ。

70年代の、明日への希望と活力に満ちた日本を想い出しつつ、相馬氏の冥福を祈って合掌。

20日の告別式ではケイが弔辞を読むという。

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2005/01/17

いくら備えをしても大震災は避けれらない、という諦観

今日は阪神大震災から10年。これを機会に僕は、毎年9月1日となっている「防災の日」を、1月17日に変えたらいいのにと思う。

関東大震災の記憶はもはやほとんどないが、阪神大震災の生々しい記憶は、日本人が共有できる数少ない被災体験となっている。

とはいえ、日ごろの備えとなると、だれもがほとんどやっていない。

僕が阪神大震災の後で実行した対策といえば、おもな家具に転倒防止支柱をつけた程度だ。非常持ち出し袋もなにも考えていない。

今日の新聞のさまざまな特集記事の中で、もっとも目にとまったのは、朝日朝刊に載った防災意識世論調査だった。

「災害に備えて準備することについてどう思いますか」という質問に、「常に災害に備えておけば安心だ」が36%なのに対し、「いくら準備しても災害はさけられない」が50%もあった。

「毎日が忙しく災害のことを考えるひまがない」も7%あった。

この世論調査を解説した朝日の記事は、日本人の災害観の基幹には、鴨長明の「方丈記」にみられるようなこの世の無常観がある、という学者らの指摘に触れている。

確かに、いつ起きてもおかしくないといわれている大震災は、首都直下型地震、東海地震、南海地震、東南海地震といくつもあり、これらを心配しながら毎日の生活を営むことなど不可能なのだ。

僕の地域を直撃する首都圏直下型地震や東海大地震は、明日起こるかも知れないし、10年たっても起こらないかも知れない。

起こった時には、その時はその時。自分は、あるいは自分の家族は、巻き込まれないですむかも知れないし、巻き込まれたらそれも運とあきらめるしかない。

おおかたの気分は、そんなところなのだろう。僕もまったく同感だ。

人間はだれもがいつかは必ず死ぬ。じたばたしたところで、どうなる。このような諦観があればこそ逆に、毎日を元気に生きることができるのではないだろうか。

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2005/01/16

阪神大震災から10年に思う、これから世界は

明日は阪神大震災から10年だ。

10年一昔というが、世紀変わりをまたいでのこの10年は、実感としては二昔か三昔もの変化がある。

95年はようやくインターネットが日本にも使われ始めたころで、新聞社系サイトのはしりとしてasahi.comがスタートしたのも、この年の夏ごろだったと思う。

あのころ、これほどまでの急激なネットの広がりは、だれにも予想できなかった。

ネットだけではなく、ケータイの進歩、薄型大画面テレビ、DVDなど、10年の移り変わりは驚異的だ。

テクノロジーの爆発的な進化と併行して、人類は自らの存在基盤と生命圏を、もはや復元不可能なまでに破滅の淵に追い込んでしまった。

人間の愚かさは、この10年の間にその度合いをいっそう増したように思う。

科学の力で、神になり代わったつもりでいる人間たちの、歯止めのなさ、節操のなさ、傲慢さは、もはや救いがたい。

土星の衛星タイタンの鮮明な写真を地球に送らせる力があるのに、なぜ人間は戦争をやめるすべを持たないか。

何千年もの間、あくことなく繰り返してきた戦争一つ、地上から終了させることが出来ずに、テクノロジーだけが化け物のように肥大化して、地球を爆発寸前の状態にしてしまった。

「表」のつれづれにも書いたが、21世紀は2035年ごろに終焉するような気がする。もはや手遅れなのだ。

人類は急ぎ過ぎた。人類は競い過ぎた。人類は身の程知らずだった。人類は繁殖し過ぎた。

文明は、ゆるやかな下降、そしてゆるやかな衰弱へ。これが2015年ごろまでの次の10年の流れだろう。

その後は、急速な生態系の破綻と、気候の暴走、そして陸地の冠水・水没、あらたな病原菌やウイルスによるパニックと、21世紀は雪崩をうって崩壊していくような気がしてならない。

これを避ける道はただ一つ、文明の大幅な縮小と後ずさり、経済成長の放棄、戦争の完全な停止とあらゆる戦争システムの棄却しかあり得ない。もちろん、これは不可能なことであるが。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「95年からのこの10年、日本と世界は道を間違えた」をアップロード)

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2005/01/15

イチゴの日はいつが正しいのか、さまざまな説が‥

今日は何の日、というサイトがいろいろあって、その一つを見ると、今日1月15日はイチゴの日とある。

だれが決めたのだろうかと、こんどは「イチゴの日」で検索してみると、これが実にさまざま勝手なことを書いている。

ある者は1月15日がイチゴの日だと書き、またある者は毎月15日がイチゴの日だと書き、さらにある者は1月5日がイチゴの日だとしている。

しかも、驚くことには、それぞれがその根拠として、「ネットに書いてある」としているのだ。

こうなってくると、ネットやブログで見たことが、どんどん一人歩きして拡散していき、本当のところは何月何日がイチゴの日なのか、いよいよ分からなくなるばかりだ。

ていうか、いつがイチゴの日であっても、どうでもええやんか、という気になってしまう。イチゴそのものが温室栽培とやらで年中出回っているのだし、記念日を定めるほどのものでもなかろう。

イチゴは最近、無節操にいろいろな食べ物とジョイントされている。

イチゴ大福はいいとして、イチゴおはぎ新発売というデパ地下の売り場には驚いた。そのうちイチゴ丼やイチゴカレーが現れてもおかしくない。

で、どうでもいい話ではあるが、最初に戻ると、イチゴの日くらいでこれだけ情報が錯綜していると、ネットやブログにみんなが自由に書いている情報そのものの信頼性が疑われる結果になりはしないかと、まあ僕としてはそのあたりが気になるのだ。

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2005/01/14

バス法で磨ける電動歯ブラシの使い心地

歯の定期検査と掃除に行ってきた。

5年ほど前に、5カ月もかかってほとんど全部の歯の治療をして以来、毎年、半年ごとに歯科医から通知が送られてきて、欠かさずに行くようになった。

歯科医からは、歯の磨き方について細かい指導を受け、歯茎に45度の角度で歯ブラシの歯先をあて、5ミリくらいの間隔で細かく横に動かし、1本の歯について20回程度動かすように、といわれている。

いわゆる「バス法」と呼ばれる磨き方で、昔から言われている歯ブラシを横にあてて歯先を上下に回転させるローリング法や、歯にあてた歯ブラシそのものを円を描くように動かすフォーンズ法とは、全く異なる。

このバス法は、とくに歯周病を防ぐのに効果的とされているが、実際にやってみると意外に時間がかかり、上下左右すべての歯の表側と裏側でやると、ゆうに20分は必要で、そもそも腕が疲れてきて、いやになってしまう。

そこで、電動歯ブラシを使ってみようかという気になるのだが、どういうわけか電動歯ブラシの多くは、丸っこい歯先を高速で回転させるタイプばかりで、バス法で磨けるものがほとんど見当たらない。

05-01-14_18-19そんな中で、去年の夏ごろ、サンスターからバス法で磨くタイプの電動ハブラシTZ-35という商品が発売されていることを知って、さっそく買ってみた。替え歯ブラシ2個付きで2500円程度だったと思う。

最初のうちは、歯先を歯にあてるの慣れなくて、柄が歯にあたってガリガリと凄い音を出すのには閉口したが、やがて慣れてくるとバス法で全部の歯をみがくのに5分もあれば充分だ。

単三乾電池2本を使うので、充電切れの心配もない。

今回の定期検査で、電動歯ブラシを使い始めたことを歯科医に伝えたところ、歯科医は慎重な言い回しになった。

「電動歯ブラシは磨き残しが出るし、強く当てると歯のエナメル質を傷めてしまう」として、とても消極的なのだ。

磨き残しやエナメル質のことをいうなら、手で磨く歯ブラシだって同じことではないか、とよっぽど言おうかも思ったが、歯科医も電動歯ブラシを使うな、とまでは言わないので、僕もあえて何も言わなかった。

僕はサンスターの回し者ではないのだが、これを使い始めたらもはや手動での歯磨きは、まどろっこしくて出来なくなる。

ついでながら、僕は電動歯ブラシで磨いた後は、すべての歯と歯の隙間に、ライオンから出ている歯間ブラシのMとSSのそれぞれを使っている。

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2005/01/13

イラクの大量破壊兵器捜索、米がこっそり終了

盗っ人猛々しいというか、姑息というか、厚顔破廉恥というか、まあ形容詞はどうでもいいのだが、年明けから開いた口がふさがらない。

イラクの大量破壊兵器(WMD)捜索にあたっていたアメリカの調査団が、去年12月に対外的な説明なしで捜索を打ち切り、クリスマス休暇前にこっそりと帰国していた、と今日の夕刊各紙が報じている。

この調査団は去年10月に、イラクには生物・化学兵器の備蓄はなく、核兵器開発計画も頓挫していた、という最終報告書を議会に提出した。

最終報告書を提出した後も、ブッシュ大統領は「フセイン政権には開発する能力があった」として、イラク戦争開戦の正当性を主張し、調査団はそれを証明するための調査活動をイラクで続けていた。

これによって、イラク戦争開戦の正当性が全くなかったことが決定的となったわけだが、アメリカはこの戦争の責任をどうとるつもりか。

イラク人10万人以上を殺し、さらに膨大な数のイラク人を負傷させ、家々を破壊し、国土を蹂躙し、イラクという国を踏みにじり、世界をぶち壊したブッシュと米指導層の戦争責任は、必ずや問われるべきである。

ことここにいたっても、アメリカが超大国として世界に君臨しようとすることを阻止出来ずに、それどころかブッシュの二期目の就任を認めてしまう世界なら、前途にはもはや絶望しか横たわっていない。

アメリカの戦争責任が問われずに、あと4年間もブッシュが世界の指導者然として、独善と傲慢の限りを尽くして地球を破綻に追い込んでせせら笑うことを許す世界なら、世界が存在することがもはや許しがたいという気がする。

小泉首相の無責任なアメリカ追随ぶりは、どう釈明するのか。開戦の時にコイズミさんは、「大量破壊兵器は必ず見つかる」とテレビカメラや記者団に、自信満々で言い切っていたあの表情を、僕たちは忘れていない。

僕は、理不尽に拘束されて口の中を調べられる屈辱的な映像を世界中に流されたサダム・フセインの無念を察する。

サダムは民主主義とは相容れない独裁者であることは確かだが、ブッシュやブレア、コイズミらの戦争犯罪の度合に比べたら、まだ罪は軽い。

今回の米調査団の打ち切り・帰国について、サダム・フセインはどう語るか、その肉声と映像をぜひ全世界に放映してほしてものだ。

ついでながら、オサマ・ビン・ラディンのコメントも聞きたい。アル・ジャジーラあたりにテープかDVDが届くといいが。

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2005/01/12

首都直下型地震では、車道の確保が全てを決する

今日のブログは、「表」のつれづれ草と連動して、同じテーマについて書く。

10年以内に30%の確率で発生するとされる首都圏直下型地震は、1万2000人の死者、倒壊する建物85万棟、建物の下敷きになるなど逃げられなくなる人が5万人、と政府の防災会議は想定している。

自宅に帰ることの出来ない帰宅困難者は、1都3県で650万人にのぼるとみられている。

JR東京駅には、電車が動かないにもかかわらず、20万人の通勤者たちが集まってくる、と想定されている。

これらの「浮動する難民」の群れは、東京駅からあふれ出て、皇居前広場や日比谷公園に流れていくものと見られ、この対策が喫緊の課題となっている。

新宿、池袋、渋谷、上野など、ほかのターミナル駅に集まってくる人たちも、それぞれ数万人単位に膨れ上がることだろう。

都心の職場から隣県の自宅まで、15時間から20時間かけて歩いて帰るとしても、食料や飲み水、トイレなどさまざまな問題がある。

僕は、首都直下型地震が発生した際、被害を甚大なものにするかどうかは、主要道路をすべて車両通行禁止にして、走っている車を止めてわきに寄せ、緊急車両のために車道を確保できるかどうか、にすべてがかかっていると思う。

発生直後にこの規制に失敗したら、道路はどこも規制を無視して車で脱出しようとするエゴイズムの修羅場となり、たちまちにして緊急車両すら通ることの出来ないマヒ状態に陥ってしまうことは明白だ。

道路に緊急車両が走れなくなれば、火災は放置され、けが人の救出も搬送も出来ず、政府や自治体や警察などの車も身動きがとれず、死者は1万2000人どころではすまなくなる。

避難所への物資搬入や、スーパー、コンビニへの必需品の補充も、道路が確保されていなければ、手のほどこしようがない。

帰宅困難者たちが歩き続けるとしても、途中で食べ物や水を確保する手立てがなければ、ほとんど不可能で、その意味でも車道を緊急車両のために確保することは、至上命題といっていい。

首都直下型地震の時に、規制を無視して抜け駆けでマイカーを走らせようとする不心得者に対しては(おそらく続出すると思うが)、射殺も止む無し、という毅然とした態度で臨むべきである。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「首都直下型地震による帰宅困難者650万人は、どうするのか」をアップロード)

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2005/01/11

学生時代に徹夜で議論-「なぜ人を殺してはいけないか」

ふっと学生時代の、ささいなことが鮮やかに、つい昨日のことのように思い出されて、自分で驚くことがある。

いつごろのことだったか、僕はその光景までも細部にいたるまで覚えているのだが、一人の仲間の下宿の部屋で、数人で夜通し話をしていたことがある。

いつの間にか話のテーマは、「なぜ僕たちは人を殺さないのか」というところに絞り込まれていった。

人を殺してはいけないことは、法律に定められているが、法律はなぜ人を殺してはいけない、としているのか。人を殺してはならないというのは、それほど自明のことなのだろうか。

実際に人を殺さないのは、裁判と刑罰が待っているからで、法律に定めがなく刑罰もなかったら人を殺すことが出来るのではないか。

いや現実に、戦争で人を殺す行為が許されているのはなぜか。戦争なら、国家のお墨付きでどんなにたくさんの人を殺しても、なんのお咎めもないのだ。それも戦勝国になった場合のことだが‥。

という具合に、青臭い議論が延々と続き、完全犯罪は意外に簡単ではないか、というところまでたどり着いた。

そこで改めて、人を殺すことがそんなに簡単に出来るのなら、なぜ僕たちは人殺しをしないのか、という最初の疑問に立ち戻ったのである。

なぜだろう。なぜ自分は人を殺さないか。それぞれが、その理由を探して思索を掘り進めていくうちに分からなくなって、だれもが重苦しい沈黙の中で、頭が回らなくなっていた。

夜がしらじらと明け始めるころ、その中の唯一の女子学生だったY子が、ぽつりとつぶやいた。

「人を殺したって、なんにも面白くないからよ」

そのひと言で、みんなが、天啓を受けたようにはじけあがった。「そうだよ。人を殺したって、なんにも面白くないからだよ」

この、あたりまえの結論に、僕たちは沸きあがった。

あれから数十年たって、時代は変わった。いまは、面白くて人を殺す子どもがいても、驚かない世の中だ。

輝くように綺麗だったY子は、一度目の結婚では離婚し、二度目の結婚では夫を癌で失った、と微かな風の便りに聞く。

もういい年になっているはずのY子は、かつてこんな話をしたことを、そして自分が出してみんなが納得した結論を、覚えているだろうか。

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2005/01/10

ダム・道路・空港‥インフラが廃墟になっていく

日本の国債や地方債の累積残高が、対GDP比で151%の774兆円に達しているという、世界に例をみない危機に対して、「全く心配はいらない」という説明をする政治家がいる。

たとえば亀井静香・元自民党政調会長などがその代表といっていいのだが、「赤字国債はドブに捨てたお金ではなく、道路や橋などの社会資本となって国民の財産になっている。だから、累積残高が増えても何の心配もいらない」というのだ。

なるほど、そうなのか、という気にもさせられるが、じつはこうした論法がとんでもない詭弁であることが、しだいに明らかになってきた。

これは日経新聞あたりが年明けてから力を入れている少子化問題キャンペーンの記事に書かれているのだが、社会資本の過度の充実が実は、少子化の進展によって思いもよらない重荷となりつつある、というのだ。

それによると、日本の公共投資は過去40年間に1000兆円に達している。とりわけ90年代には400兆円を投入して、ダムや橋、道路、新幹線、空港、競技施設などをつくり続けてきた。

しかし、人口が増え続けていくことを前提に作られてきたこれらのインフラの多くが、人口の頭打ちや少子化のあおりを受けて、あてにしていた利用者の伸びがないまま、経営難でにっちもさっちもいかなくなっている。

このまま維持をつづければ、ますます借金がかさむばかりだが、かといって周辺環境を保ちながら撤去するとなると、建設と同じくらいに莫大な費用がかかるため、それもままならない。

まもなく始まる人口の急減少によって、21世紀末の日本の人口は半分近い7000万人にまで落ち込む。

もはや、インフラが廃墟と化していくのを放置するしか方法はないかも知れない、という戦慄の結論が導き出される。

「いよいよ社会資本の殺し方を研究するときが来た」という、昨日の日経記事の元土木学会会長のコメントが生々しい。

この記事のメッセージは、「世界に先駆けて人口減社会に突入する日本。いっそ社会資本破壊の手本になるという手もある。廃墟を生かす道もあろう。ダムを壊す日に備える想像力が必要だ」とある。

1000兆円もかけて整備してきたインフラが、つぎつぎと廃墟と化していった時、国民に残されたのはまさしく1000兆円を超す借金だけとなる。

これでも心配ない、と言い続けますか。亀井のおとっつぁん。

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2005/01/09

部屋の加湿器に補充した水はどこへ消える?

空気が乾燥するいまの季節は、加湿器が大活躍している。

僕の家には、加湿器が2台あって、エアコンの暖房がオンになっている時には、加湿器も作動させている。

居間の加湿器は、タンクに2リットルの水を補充しても、数時間のうちにカラになってしまう。1日に5、6リットルの水が費やされている。

素朴なギモンだが、こうやって補充を続けた水は、いったいどこに消えていくのだろうか。

1日に2回ほどは、換気のためにベランダの戸を開けるのだが、戸を開けなくてもどんどんタンクの水は減っていく。

かといって、ガラス戸の内側に結露するわけでなし、部屋の中の家具や本が湿っぽくなるわけでもない。

加湿器には、部屋の湿度を示すランプがついていて、この季節は長時間、加湿器が作動していても、湿度は30%を示してして、40%になることはほとんどない。

水を補充しても補充しても、部屋の空気はいつも乾燥状態なのだ。

1日に5、6リットルもの水は、どこに消えているのか、不思議でたまらない。

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2005/01/08

平成がスタートして今日で満16年

いつものことながら、今年は平成何年になるのかが、すぐに頭に浮かんでこない。

何か提出する書類に元号を記入しなければならない時には、カレンダーを見るか新聞の日付欄をみるかして確かめている。

今年2005年は平成17年なのだが、これは平成になって17年になるというわけではない。

昭和天皇が亡くなったのが1989年1月7日で、翌1月8日から平成元年がスタートした。

ということは、今日1月8日で平成が満16年を迎えたことになる。

16年前の1月6日夜、僕はたまたま泊まり勤務だった。7日未明、会社の宿直室のベッドで寝ているところを、僕はたたき起こされた。

天皇が危篤になったらしく、宮内庁が間もなく会見を行う、という。あらかじめ呼び出し要員に決まっている部員の家に、電話をかけまくる。

社会部に行ってみると、まだ夜も明けやらぬ中を、社の幹部たちまでかけつけていて、騒然としている。

号外の手配、予定稿の手直し、関係者の談話や街の表情の取材。テレビでは刻々と、宮内庁のあわただしい動きを伝えている。

宮内庁の会見が始まった。「天皇陛下においては‥崩御あらせられました」。歴史的なこの一瞬に、編集局中が「おおっ」とどよめき、それぞれがワッと自分の仕事にかかる。

小渕さんが、あの「平成」の元号をかかげて発表したのは、この日のことだった。

それにしても、元号と西暦の二重構造は、時代の意味をあいまいにし、時代が発する問いかけをぼやけさせてしまう。

このあたりで、官公庁もすべて西暦に一本化したらどうだろうか。世界に通じる日本をめざすならば、いつまでも元号でもあるまい。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「凋落『紅白』を象徴した旗上げゲームの愚劣と歌手への侮辱」をアップロード)

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2005/01/07

スマトラ沖地震、相次ぐ有名人の超高額寄付に思う

スマトラ沖地震に対して、有名人やスポーツ選手らからの超高額の義援金提供が相次いでいる。

あのヨン様が3億ウォン(約3000万円)を提供したと思ったら、われらが松井秀喜選手が個人の日本人としては最高額の5000万円を寄付。

外国勢では上には上がいるもので、「スピード」の主演女優サンドラ・ブロックは100万ドル(約1億400万円)。

さらに米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長夫妻のビル・アンド・メリンダ・ゲイツ基金は300万ドル(約3億1200万円)を提供。

と、まあ豪勢な義援金提供の競演に、目もくらむ思いだが、こうした善意の高額寄付自体は、むろん歓迎すべきことであろう。

しかし、今回の地震に対して、1万円どころかただの1000円の寄付すらしていない僕としては、なんとなく釈然としない思いが頭の片隅をかすめているのもまた、事実なのである。

大金持ちに対するやっかみか。金さえ出せばの風潮に対するシラケか。善意を偽善と読み替えてみたい誘惑を抑えられないのか。いや、どうもそんな問題とは違うような気がする。

なんというか、うまく言い表せないが、こういうニュースを聞いた時に、顔が赤くなってしまうような、穴があったら入りたいような、ある種の気恥ずかしさのようなものを、どう説明したらいいのだろうか。

「オレは金持ちだから、今回の被害に対して、それ相応の寄付をするのは当たり前のこと」。彼らは、彼女らは、もちろんそんなことは言わず、黙々と寄付をしているのはよく分かる。

だがなあ。多額の寄付をすることもままならず、かといってボランティアとして救援に赴くだけの意欲もなく、被災者のために祈る神すら持たない身としては、身の置き所がないではないか。

こうした時に、持たざるものの取るべき正しい態度とは、いかなるものであろうかと自問してみても、答えに窮してしまう。

貝のように押し黙ったまま、ひたすら己のささやかで変哲もない日常生活を、昨日も今日も明日も淡々と続けていくしかないのだろうか。

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2005/01/06

スマトラ沖大地震になすすべがない神とは

スマトラ沖地震の死者は15万人を超え、さらに15万人が死の危機に瀕している、とニュースは伝えている。家を失った被災者は500万人以上にのぼると見られている。

最大級の惨事となったこの地震に関連して、英国国教会のローワン・ウィリアムズ・カンタベリー大主教が、「感覚がまひする規模のこのような苦しみを容認する神を、どうして信じられようか」という異例の手記を、サンデー・テレグラフに寄せた、という。

どの宗教の神であれ、まさしくこのような時に現れて、苦しみ悶える人々を救うことこそ、神の役割ではないのか。

こうした時に、神が出現して大津波による死者たちを蘇らせ、負傷者の傷を癒し、流されたり倒壊した家をたちどころに復元させる奇跡を見せてくれたならば、世界中の人々が、頑固な無神論者も含めて、すべてが神の存在を信じることは間違いない。

なのに、神の存在を人々に知らしめる格好の機会というのに、なぜ神は沈黙を続け、姿も現さずに、この惨劇を放置しているのだろうか。

20世紀においても、神はいつだって、何もしなかった。アウシュヴィッツで、ヒロシマ、ナガサキで、空襲で炎上する世界各地の都市で、みんなが神に救いを求めながら炎の中で死んでいくのを、神はただ横目で見ているだけだった。

人間たちが最もその存在を必要としている時に、何もすることの出来ない神というのは、神の名に値するだろうか。

現世で苦しんで死んでいく者は、必ず天国で救済されるから、それで我慢しろ、とでもいうのだろうか。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教だけではない。仏教もまた、このような大惨事に対して、無力を露呈している。

スリランカの信心深い仏教徒たちが、今回の地震で各国から届けられた救援物資を、われさきに奪い合っている、と今日の夕刊が伝えている。

こうした諸々のことがらは、神の存在や仏の教えが、現実の地獄に対して有効に機能せず、絶望的なまでに非力であることの証明ではないのか。

神はもともと存在しないか、存在しているのだが面倒なことは人間に責任転嫁しているか、どちらかに違いない。

僕は神なるものの無責任に憤りを感じつつ、この際、世界各国は地上で繰り広げられているすべての戦争と戦闘行為を即時に終了させ、スマトラ沖地震の被災者の救援に専念すべきだ、と考える。

イラクに駐留している米軍もただちにイラクから完全撤退し、すべての米軍は国連の指揮下に入って、地震被災者の救援と被災地の復興にあたるべきだ。

もちろん米国に追随しているイギリス、オーストラリア、日本などの軍隊や自衛隊も、すべてイラクを出て、そのまま被災地に向かうべし、である。

人間を救うことが出来るのは、神ではなくて人間しかいないのだ。

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2005/01/05

ドストエフスキーの「白痴」を読了

年末から読み始めたドストエフスキーの「白痴」を、文字の大きな新潮文庫版で読み終えた。

なぜいままで、この作品を読む機会がなかったのだろうかと、悔やまれる。

こうした長編小説は、社会人になってしまうとなかなか読み始めるのは難しいことも事実ではあるのだが。

読後感をひと言で書くのは難しいが、まさしくこれぞドストエフスキー的世界であり、物語運びの巧みさと迫力に圧倒されながら、一気に読んでしまった。

ラストの壮絶さには絶句する。このような結末が待っているとは衝撃的で、まさにこれこそが人間というものの不条理さなのかも知れない。

僕が強く引かれた人物は、粗野で生活感あふれるロゴージンと、奔放で無垢なナスターシャ・フィリポヴナだ。

主人公のムイシュキン公爵はあまりにも善良すぎて、感情移入すればするほど、心が痛んでやるせなくなってくる。

アグラーヤは良くも悪くも、美しくて優しく自尊心の強い女の典型で、男だったら心引かれながらもイライラさせられるだろう。

もう数ヶ月早くこの小説を読んでいたら、さまざまな物事への僕の処し方も、また違ったものになっていたかも知れない。

明日から、同じドストの「悪霊」に挑戦する。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「元日から1週間ほどは、なぜ時間の進み方が遅いのだろうか」をアップロード)

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2005/01/04

ケーブル端子におけるオスとメス

年末年始にビデオカメラで撮影した映像を、DVDレコーダーに取り込んでDVDに焼くことにした。

そのためには、ビデオカメラとDVDレコーダーを接続するDVケーブル(iLinkあるいはIEEE1394ケーブルなど、さまざまな呼び方があるのでややこしい)が必要だ。

両方とも端末は4ピンであることを説明書で確かめて、ヨドバシカメラに買いに行った。

05-01-04_18-37このケーブルはじつにさまざまな規格があって、4ピン同士だけでなく、4ピンと6ピン、6ピン同士など、間違ったものを買ったら接続出来なくなるので、確認が必要だ。

DVケーブルだけでなく、USBケーブルなどほかのケーブルでもそうだが、ピンの数とは別に、オス・メスの区別にも注意しなければならない。

オス・メスとは誰が言い出したのか知らないが、ケーブルの端子の形状というか構造を、これほど端的に分かりやすく表現する言葉はないだろう。

オスとは差し込む側の端子の形状であり、メスとは差し込まれる側の端子の形状なのだ。

要するに、はしたない言い方をすれば、オトコとオンナのカラダの違いと思えばいい。

ケーブルの端子はオスばかりとは限らないのだ。たとえば延長用のDVケーブルは、片方がオスで片方がメスだ。

花も恥らう乙女たちも、「両端がオスのケーブル下さい」などと、平然と言ってのけて買っているのだろうか。

ケーブル端子のオス・メスで顔を赤らめているのはオジサンくらいで、花も恥らう乙女なんてもう日本にはいないのかも知れないが。

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2005/01/03

愛知万博には何か決定的なものが欠けている

今年の元日付け新聞各紙は、別刷り特集の中で愛知万博をテーマにした企画が目立った。

3月25日から9月25日までの185日間。愛・地球博として、環境問題などを考えたり自然と調和した新しい文明を模索する、としているが、僕にはどうも何か決定的なものが欠けているような気がしてならない。

大人4600円(前売り4100円)を出して、全国から交通費や宿泊費を出して、はたして見に行くだけのものなのか、いまひとつ分かりにくい。

各国やさまざまな企業が、多彩なパピリオンを並べ立て、それぞれが、それなりのテーマに沿って展示内容やアトラクションを繰り広げるのだとしても、それがどうした、という感じなのだ。

愛・地球博ということ自体が、そもそも自己分裂しているような気がする。というか、地球で進行している危機の程度は、万博を開催してハデなお祭り騒ぎを繰り広げて解決されるものではない。

むしろ、このような万博が、地球の真の危機から世界の目をそらし、パビリオンごとの集客競争やキャラクターグッズ、特産品の売り上げ競争へと矮小化されていく危険の方がずっと心配だ。

もっといえば、本当に地球のことを考えるならば、万博をやること自体が時代錯誤なのだ。

万博の採算性はどうか、地元にいくらカネが落ちるか、沈みつつある名古屋圏への経済効果はどうか。主催者たちの関心は、いまはいろいろな理念を語っていても、開幕すればただちに現実的な話になっていくだろう。

人気パビリオンに出来る3時間待ちだの5時間待ちだのという行列のことを思うだけで、頭がクラクラする。

それに、会場内のレストランはどこも目玉が飛び出るほど高いメニューなのだろうな、と想像する。

期間中に、いったいどれだけの電力を会場全体で消費し、どれだけのCO2を増加させることになるのか。

温暖化を真剣に食い止めようともせずに、愛・地球博とは笑止千万な気がして仕方がない。

いや、それ以前の問題として、イラク戦争の泥沼化で多くのイラク人が毎日殺され続けている中で、愛・地球博はないだろう。

環境保護団体などは、愛知万博へのアンチテーゼとして、何を打ち出していこうとしているのか、さっぱり伝わってこないのも気になる。

このままでは、環境ゲリラ、環境テロなどが現れてもおかしくないという予感がするが、主催者や警備側はどんな対策を考えているのだろうか。

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2005/01/02

由紀さおり・安田祥子の童謡コンサート

05-01-02_17-03今日は雲一つない快晴。東京都心から、真っ白に雪をかぶった富士山がきれいに見えた。

久しぶりで、由紀さおり、安田祥子の童謡コンサートに行った。

童謡・唱歌を中心にたっぷり1時間半。客席からのリクエストに応じて、どんな童謡でも即興で歌い出して見事にハモっていくあたりは、さすがベテランの味だ。

この姉妹がいつの間にか、宮崎駿監督アニメの主題歌を、自分たちのレパートリーに加えて歌いこなしているのには、驚くとともに感心した。

「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」などの主題歌や挿入歌を何曲か披露したのだが、これが抜群にうまい。トトロを歌いながらの二人の振りや表情などは、完全にノリ切っている。

いまの子どもたちにとって、宮崎アニメの主題歌は現代の童謡なのだ、という感じを強く持った。

単に昔の童謡に固執するだけでなく、こうした新しい息吹を積極的に取り込んで勉強を重ねている由紀・安田姉妹の前向きな姿勢に、とても好感を覚えた。

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2005/01/01

2005年明けましておめでとうございます

2005年明けましておめでとうございます。

大晦日から都内某所におりますが、新聞と年賀状を取りに家にちょっとだけ戻ったところです。

そこで、表のサイトを更新し(記事は昨年中に作っておいた)、裏のブログもこうやって更新しているしだいです。

いまからまた都内某所に戻ります。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、「2005年冒頭に思う、強大な愚行を前にした言葉の無力」をアップロード)

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