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2005/01/17

いくら備えをしても大震災は避けれらない、という諦観

今日は阪神大震災から10年。これを機会に僕は、毎年9月1日となっている「防災の日」を、1月17日に変えたらいいのにと思う。

関東大震災の記憶はもはやほとんどないが、阪神大震災の生々しい記憶は、日本人が共有できる数少ない被災体験となっている。

とはいえ、日ごろの備えとなると、だれもがほとんどやっていない。

僕が阪神大震災の後で実行した対策といえば、おもな家具に転倒防止支柱をつけた程度だ。非常持ち出し袋もなにも考えていない。

今日の新聞のさまざまな特集記事の中で、もっとも目にとまったのは、朝日朝刊に載った防災意識世論調査だった。

「災害に備えて準備することについてどう思いますか」という質問に、「常に災害に備えておけば安心だ」が36%なのに対し、「いくら準備しても災害はさけられない」が50%もあった。

「毎日が忙しく災害のことを考えるひまがない」も7%あった。

この世論調査を解説した朝日の記事は、日本人の災害観の基幹には、鴨長明の「方丈記」にみられるようなこの世の無常観がある、という学者らの指摘に触れている。

確かに、いつ起きてもおかしくないといわれている大震災は、首都直下型地震、東海地震、南海地震、東南海地震といくつもあり、これらを心配しながら毎日の生活を営むことなど不可能なのだ。

僕の地域を直撃する首都圏直下型地震や東海大地震は、明日起こるかも知れないし、10年たっても起こらないかも知れない。

起こった時には、その時はその時。自分は、あるいは自分の家族は、巻き込まれないですむかも知れないし、巻き込まれたらそれも運とあきらめるしかない。

おおかたの気分は、そんなところなのだろう。僕もまったく同感だ。

人間はだれもがいつかは必ず死ぬ。じたばたしたところで、どうなる。このような諦観があればこそ逆に、毎日を元気に生きることができるのではないだろうか。

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