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2005/01/03

愛知万博には何か決定的なものが欠けている

今年の元日付け新聞各紙は、別刷り特集の中で愛知万博をテーマにした企画が目立った。

3月25日から9月25日までの185日間。愛・地球博として、環境問題などを考えたり自然と調和した新しい文明を模索する、としているが、僕にはどうも何か決定的なものが欠けているような気がしてならない。

大人4600円(前売り4100円)を出して、全国から交通費や宿泊費を出して、はたして見に行くだけのものなのか、いまひとつ分かりにくい。

各国やさまざまな企業が、多彩なパピリオンを並べ立て、それぞれが、それなりのテーマに沿って展示内容やアトラクションを繰り広げるのだとしても、それがどうした、という感じなのだ。

愛・地球博ということ自体が、そもそも自己分裂しているような気がする。というか、地球で進行している危機の程度は、万博を開催してハデなお祭り騒ぎを繰り広げて解決されるものではない。

むしろ、このような万博が、地球の真の危機から世界の目をそらし、パビリオンごとの集客競争やキャラクターグッズ、特産品の売り上げ競争へと矮小化されていく危険の方がずっと心配だ。

もっといえば、本当に地球のことを考えるならば、万博をやること自体が時代錯誤なのだ。

万博の採算性はどうか、地元にいくらカネが落ちるか、沈みつつある名古屋圏への経済効果はどうか。主催者たちの関心は、いまはいろいろな理念を語っていても、開幕すればただちに現実的な話になっていくだろう。

人気パビリオンに出来る3時間待ちだの5時間待ちだのという行列のことを思うだけで、頭がクラクラする。

それに、会場内のレストランはどこも目玉が飛び出るほど高いメニューなのだろうな、と想像する。

期間中に、いったいどれだけの電力を会場全体で消費し、どれだけのCO2を増加させることになるのか。

温暖化を真剣に食い止めようともせずに、愛・地球博とは笑止千万な気がして仕方がない。

いや、それ以前の問題として、イラク戦争の泥沼化で多くのイラク人が毎日殺され続けている中で、愛・地球博はないだろう。

環境保護団体などは、愛知万博へのアンチテーゼとして、何を打ち出していこうとしているのか、さっぱり伝わってこないのも気になる。

このままでは、環境ゲリラ、環境テロなどが現れてもおかしくないという予感がするが、主催者や警備側はどんな対策を考えているのだろうか。

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