ラ・トゥール展とマグダラのマリア
上野の国立西洋美術館で開催されているラ・トゥール展の会期が29日までと迫ってきたので、今日は思い切って行ってきた。
先日行ったゴッホ展の混みようとはうって変わって、こちらは気の毒なほど閑散としている。
僕のお目当ての絵は、たったひとつ。名高い「ダイヤのエースを持ついかさま師」ではなく、「書物のあるマグダラのマリア」である。
「いかさま師」の前には人だかりが出来ていたが、「マグダラのマリア」は人も少なく、ゆっくり鑑賞することが出来た。
ラ・トゥールは「光と闇の画家」といわれるように、暗い部屋の中でロウソクの微かな光を浴びたマリアの姿に息をのむ。
両手で持った頭蓋骨をじっと見つめるマリアは、その横顔のほとんどが長い髪に覆われていて、見えるのはわずかに鼻と口元だけに過ぎない。
しかし、そこからはマリアの万感の思いが伝わってくるようだ。
清らかさが強調される聖母マリアとは対照的に、マグダラのマリアは娼婦に身を落としていた女だったが、キリストの弟子となって罪を深く悔い改めたとされている。
僕はキリスト教には疎く、聖書の話を聞いてもほとんど無感動なのだが、マグダラのマリアには心を突き動かされるものがある。
ラ・トゥールのこの絵では、マリアは着衣を腰のあたりで広げていて上半身は裸だ。
エロチックともいえるマリアが頭蓋骨を手に感じているのは、人間のはかなさと弱さ、生きることのつらさと切なさであろうか。
そう考えるとこの1枚の絵には、キリスト教という1宗教を超えて、仏教の無常観や「色即是空」の世界観にもつながる普遍的なものが流れているような気がする。
**********
ラ・トゥール展から話がとぶが、マグダラのマリアを描いた絵では、数年前にやはり上野で見たティツィアーノの「改悛するマグダラのマリア」が強く印象に残っている。
これはフィレンツェのパラティーナ美術館蔵のもので、赤く泣きはらした目とあらわな胸が、見るものの心をひきつける。
ラ・トゥールにしてもティツィアーノにしても、描かれているマグダラのマリアは、煩悩からの解脱に苦しむ生身の人間の飾らない姿を感じさせ、それが時代や国や宗教を超えて多くの人に親しまれている所以であろう。
| 固定リンク
コメント