無観客のサッカー試合は、人類滅亡後の世界を予感
6月8日に平壌で行われる予定だったサッカーW杯アジア最終予選の北朝鮮-日本戦が、第三国で、しかも無観客試合になる可能性が高くなっている。
多くの日本人にとって、無観客のサッカー試合というのは初めての体験だ。
どのスポーツでも、観客あるいは応援団に見てもらうことを前提にして成り立っており、これはスポーツとはそもそも何かを考えるいい機会かも知れない。
なぜスポーツはプロ、アマを問わず観客に見られることを前提にしているのだろうか。
体を鍛えるだけなら、ジムに通うという手もあるし、自宅にこもってトレーニングマシンで体力づくりをすればいい。
しかし、スポーツというものは、体を鍛えたり身体能力を伸ばすだけではない、何かがある。それは競走であり、勝ち負けを伴う勝負だということだ。
この勝ち負けを競うというところで、観客という存在が不可欠になってくるような気がする。
それは観客も選手と一体化して、勝負を楽しむことであり、ひいきする選手やチームへの応援がスポーツの一環として重要な要素になってくる。
こうして選手たちも、観客を意識してよりスポーツに集中し、ふだんの自分の力以上のものを出すことが少なくない。
大試合になればなるほど、選手たちはすでに自分自身を超えたもっと大きな存在になり、それは観客が憑依したとてつもない存在になってしまうのだ。
これは、大晦日の「紅白」で歌う歌手たちの絶唱が、全身全霊ですべての力を出し切ることによって、ふだんとは違う素晴らしい出来栄えになることが多いのと似ている。
さてそこで、無観客で行われる日本-北朝鮮の試合であるが、テレビ中継の比重が格段に大きくなる。
だれもいないガラガラのスタンドを背景に行う試合は、選手たちにとっても、やりづらかろう。
自分たちを見ているのはテレビカメラだけであり、電波を通じてのみ日朝両国をはじめ世界のサッカーファンとつながっている。
僕は、人類滅亡後に残ったロボットたちが集まって、何もやることのなくなった地球で何かをやるとしたら、サッカーの試合をやるのではないか、という気がする。
たぶん、観客席はガラガラで、ほかのロボットたちの観戦はないだろう。
試合の結果は、たぶんどうでもいいことなのだ。白昼夢のようなシュールなサッカーは、ロボットたちにとっても面白くも何ともない、時間つぶしでしかないのだ。
僕は、無観客で行われる北朝鮮-日本戦のことを思うと、いつか訪れる人類亡き世界への予知夢のような、ねじれた空疎感を感じてならない。
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