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2005/06/15

45年目の6.15、樺美智子さんの2枚の写真

05-06-15_15-12もう60年安保を知らない世代が、現役では圧倒的に多くなってしまった。

 

6.15といっても、ピンとくる人たちがどれだけいることだろうか。あれから45年が経つ。

 

僕の手元に、2冊の本がある。1960年6月15日の、樺美智子さんが写った2枚の写真が載っている。

 

1つは、「エコノミスト別冊 安保にゆれた日本の記録」であり、国会デモへと向かう樺さんの最後の姿が写っている。

 

この写真の時刻は、午後3時。記事によると、樺さんは黄色いカーディガンに濃紺のズボンで、左手に何かを握り締め、右手で男子学生とスクラムを組んでいる。

 

樺さんはそれから4時間後に自分に降りかかる恐ろしい出来事を、まだ知るよしもない。

 

もう1つは、「ゆるせない日からの記録」で、午後7時すぎに起きた警官隊とデモ隊の激突の直後、血まみれの学生たちがつぎつぎと国会構内に敷かれた毛布の上に運び出されてくる凄惨な写真だ。

 

この写真では、仰向けの形で両手を引きずられている女子学生の姿が、ひときわ凄まじい印象を受けるが、これは樺さんではない。

 

樺さんは、写真手前に横たわる2人の学生の向こう側で、女子学生に左手を抱えられている。この時、樺さんはすでに息絶えていたとされている。

 

午後7時5分すぎからの惨劇については、つぎのように記されている(以下は抜粋)。

 

第四機動隊の隊列から異様な叫びが起きたと思うとワァーッというかん声とともに警棒をふれかざした黒いカタマリが学生の群に向かって突き進んだ。たちまち南通用門入口付近は大混乱となった。学生たちは崩れるようにトドッと押し返され、悲鳴があちこちに起こった。
警棒はマキをたたき割るように学生たちの頭や肩に打ち落とされていた。学生があちこちで頭から血を浴びて倒れた。倒れた学生を警官が二、三人がかりで引きずっていく。逃げまどう女子学生の後からも警棒が襲いかかり、倒れた女子学生を私服が傘の先で突っついた。
血みどろになって倒れる学生に片っ端から私服が手錠をかけ、構内の大きな樹の下へ引きずり込んでいく。

 

有事立法が出来て、日本は戦時への国内態勢を着々と整備しつつある。「かかってくるなら、いつでも来い」といわんばかりの姿勢である。

 

それだけではない。日本を、他国と戦争が出来る「普通の国」にしようという勇ましい流れに対しても、国民はまったく抵抗力を失い、催眠術にかけられた羊の群れのように、従順について行こうとしている。

 

改憲に対しても、世論調査では賛成が反対を上回っている状態では、もはや憲法9条は風前のともし火だ。

 

60年安保とは、6.15とは何だったのか。僕たちは、樺さんの遺志をきちんと受け止めてきたのだろうか。

 

2枚の写真の向こうから、樺さんが問いかけているような気がする。

 

 

【このブログの、この後の関連記事】

 

とっておき号外に見るあの時(7)-樺美智子さんの死(2006年3月6日)

 

60年安保の6・15から半世紀、樺美智子さん忘るまじ(2010年6月12日)

 

6.15と樺美智子さん 1960年-2014年(2014年6月15日)

 

60年目の6.15と樺美智子さん(2020年6月12日)

 

 

ほかの参考ブログ記事:6月15日

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» 安保は遠くなりにけり〜ダイナミズムの根底は? [酔生夢死浪人日記]
 1960年6月15日は日本の現代史上、最も重要な日である……と書いても、ピンと来る人は少ないはずだ。かく言う俺も、当時は三つのガキだったし、あくまで後学による感想に過ぎない。  59年から翌60年に掛け、日米安全保障条約改定への反対運動が展開していた。「朝日ジャーナルの時代」を引っ張り出してみると、意外と思える記事が並んでいる。宮沢俊義氏(憲法学者)は59年11月に寄稿した一文で、国民の無関心を憂うと同時に、オープンな議論の必要性を説かれてい... [続きを読む]

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