鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人の個性を言い表した有名なたとえに、「鳴かぬなら‥‥」の不如帰(ホトトギス)の句がある。
信長の「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」
秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみしょう(みせよう)ほととぎす」
家康の「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」
これに対して、いずれにもあてはまらない現代風の言い方があることを知って、僕は表の「つれづれ草」に書いたことがある(01年1月26日)。
それは、「鳴かぬなら 替えてしまおう ほととぎす」だ。大競争時代に突入したシビアな現代社会の実相を、良くも悪くも言い当てている言い方として、僕は感心したものだ。
「替えてしまおうほととぎす」は、容赦なく広がるグローバル化の中で、市場経済にとって価値あるものと無価値のものとが厳しく選別されて当然という論理であり、子どもも大人も企業も国家さえも、鳴かなければすべてふるい落とされリストラされるのが当たり前、という強者の論理であり、端的に言えばアメリカ型の競争原理といっていい。
これに対して、鳴かないほととぎすへの、全く異なる対応の句が、いま静かな広がりを見せていることを、僕は最近の新聞の投書欄で初めて知った。
「鳴かぬなら それでいいじゃん ほととぎす」
これは、信長、秀吉、家康のいずれとも異なり、「替えてしまおう」の対極の発想といっていいだろう。
「鳴かぬなら それでいいじゃん」という言葉は、鳴かないほととぎすにも立派な価値があり、かけがいのない存在理由があることをはっきりと認めるものだ。
鳴かないことを責めたてられて、いまどれだけ多くの子どもたちが苦しみもがいていることだろうか。
子どもたちだけではない。大人たちの多くが、一生けいめい頑張っているつもりでも、成果主義・能力主義がはびこる中で、鳴くことが出来ずに希望を失い、自信を喪失している。
これからの社会に求められるのは、自己責任を強調する冷酷な競争社会ではなく、鳴かないほととぎすたちを「それでいいじゃん」と包み込む懐の深い社会ではないだろうか。
追記:「鳴かぬなら それでいいじゃん」は、信長の子孫でフィギュアスケート選手の織田信成さんが報道陣の質問に対して、とっさのアドリブで答えた内容だそうだが、これがオリジナルなのかどうかははっきりしない。また松下幸之助氏はかつて、「鳴かぬなら それもまたよし ほととぎす」と詠んだという話もあり、このあたりが原点かもしれない。
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コメント
(悩み事相談員風に)
鳴かぬなら その訳聞こう ほととぎす
(橋下・大阪市長風に)
鳴かぬなら 懲戒処分だ ほととぎす
ほととぎすは鳴くべし、というのは人間側の勝手な思い上がりなのかも。鳴くも鳴かぬも、ほととぎすの気持ちを大切にしてあげましょう。
投稿: BANYUU | 2012/04/01 23:00
目から鱗が100枚くらい落ちました。
選択肢って3っつだけじゃないんですね(当たり前!)
草食系化するこの世の中、人は人、ぴったりの言葉です。
投稿: Hiroko | 2012/03/29 06:36