絶えず物質が入れ替わっている自分の実体とは
僕は、ずっと以前からの僕と同じ存在なのか、それとも何かが入れ替わっているのか。
もっと言えば、幼少時の僕と、小学生の僕と、中高生の僕、そして学生時代の僕、20代の僕、これは今の僕と同じものなのか、まったく別物なのか。
不思議に思いはじめると、ますます不思議になってきて、2、3年前に買った本のページをめくってみる。
人間の体をつくっている物質=原子は、1年で4分の3が入れ替わっている、とある。
もっともひんぱんに入れ替わっているのは、皮膚、胃、腸などで、3、4日ですべて新しい物質になる。
目の角膜も、1週間で入れ替わる。
赤血球は平均125日で、また肺、肝臓、すい臓、脾臓は400~500日で入れ替わる。
比較的ゆっくりと入れ替わるのは、骨で約5年、筋肉は約7年かかる。
人間の体の中では、1分間に2億個の細胞が死に、あらたに1分間に2億個の細胞が作られている。
心臓と脳については、細胞の入れ替わりはまったくないか、あっても遅いペースというが、それでも細胞の内部では絶えず物質が入れ替わっている。
過去から確実に継続していると思われている記憶そのものも、毎晩欠かさず作り直されていて、昔の記憶と今の記憶とは別物である。(以上、東京書籍刊の「私のからだは世界一すばらしい」から)
こうしてみると、誕生してから現在までに至る自分というものの継続性は、思っているほどには強固なものではないような気がしてくる。
自分というもののアィデンティティーは、どこによりどころがあるのだろうか。
体を構成している物質の総体が自分ということならば、自分であって自分でないという状態の連続だ。
やはり、僕が前からウスウス感じているように、人間というのは(というより、生命全体がそうなのだが)、実体ではなくて現象なのではないかという気がしてくる。
免疫学者の多田富雄氏が言った「女は実体だが、男は現象である」という言葉は有名で、僕もちょっとふれたことがある。
しかし突き詰めていけば、男も女も現象に還元されていって、実体は残らないか、強いて言えば「空」こそが実体なのではないだろうか。
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コメント
石山喜章さん、はじめまして。
コメントとリンクありがとうございます。
宮澤賢治は80年以上も前に、人間存在が現象であることを鋭く見抜いていたのですね。
わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です(『春と修羅』序より)
自分という存在が、確固とした不動の実体ではなく、絶えず移ろい続けている現象の連続なのだと知ると、かえってスッキリと落ち着いた気分になります。
投稿: BANYUU | 2008/11/05 23:27
まさにそうだと思います。
人間という存在も条件・状況・環境が許す中でその姿をしているだけの現象ですから、2,000度の環境ではこの形は維持できませんし、条件が変われば(死んで土に還れば)違う物質にもなってゆきます。
実在するものは、情報や食べ物を取り入れたり出したりしている“ひとつの動き”しかないのではないでしょうか。
※現在作成中の小生のHPからもリンクを張らせていただきました。
投稿: 石山喜章 | 2008/11/04 23:28