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2005/06/19

遠近法の原理を実感する場所

05-06-08_13-40遠近法というと、ルネサンス期の絵画を想像する。とりわけ、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は見事な遠近法の例として、よく引き合いに出される。
 
日常生活では、遠近法などあまり意識する機会は少ないが、僕はいつもJR恵比寿駅から、恵比寿ガーデンプレイス方面へと延々と続く「動く歩道」の前に立つと、ああこれぞ遠近法の原理、とめまいがするような感覚にとらわれる。

なぜこの「動く歩道」の空間が、遠近法を実感出来る場所なのだろうか。

思うに、ここは平行している直線の数が非常に多い。この写真でざっと数えただけでも、36本ほどの直線が平行している。

もう1つの大きな理由は、はるか遠くまでさえぎるものがなく、平行する直線たちが1点に収束する様を、鮮やかに見通すことが出来ることだろう。

ではなぜ、遠近法で見た時に数多くの平行線は1点に収束するのだろうか。遠くのものは小さく見えるから、では説明できないような気がする。

ネットで、ウィキペディアや、この説明などを読んでも、なかなかのみ込めない。

さらに不思議なのは、自分の目の高さや、カメラの高さを変えるにつれて、収束点の位置が大きく変わっていくことだ。

しゃがんだ位置では収束点はうんと下に移動し、もっと低い地面スレスレの位置で見れば収束点も地面スレスレまで下がる。

収束点というのは、つまり自分の目の高さ、カメラの高さそのものなのだと分かるが、なぜそうなるのかは、いよいよもって不思議な気がしてくる。

ここで僕は、哲学的に考えてみる。まず、この空間自体は、遠近法など内包していない。

遠近法というのは、ある主体がその空間を認識しようとした時に、その主体のみが持つ認識のあり方として初めて生じるものなのだ、と。

そして、多くの平行線が収束せずにてんでんバラバラに拡散したのでは、空間の認識が出来ない。収束するのは、認識に必要だからだ、と。

ここでまた疑問が生じる。森の中や、空の雲、星空などでは、1点に収束していないのはなぜか。

遠近法とは、平行線があって初めて成立するものではなかろうか。

ということは、遠近法は人工物(建物やモニュメント、モノリスなど)があって初めて生じるものなのだ。

ルネサンスと深い関係があるのは、そのへんに理由がありそうだ。

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コメント

Rough Toneさん、こんにちは。収束点の集合が「認識の地平線」で、それは一種の球状になっているのですね。光が到達する限界が地平線の果て、ということでしょうか。これは認識と対象、空間のすべてに関わってくる大問題のような気がしますね。

その昔、高校1年の時に、平行線はどこまでいっても交わらないというのは、だれが確かめたのか、はるか遠くで交わっているかも知れないではないか、とクラスメイトの間で大激論をしたことを思い出します。逆に、平行線でないものは必ず交わるということに対しても、交わっていることを確認できないのに、公理とするのはおかしい、と騒然となったものです。

平行線は、空間認識の根幹に関わっているのですね。

投稿: BANYUU | 2005/06/24 17:44

「自分の目の高さや、カメラの高さを変えるにつれて、収束点の位置が大きく変わっていく」という件なのですが、写真の「動く歩道」のような長大な構造物が、前方だけでなく四方八方に同じように無限に伸びていることを想像すると、それぞれの消失点を結ぶ一種の弧を描くことができませんか。これは、人間がそこにある物体の形や大きさを肉眼で理解することができる「認識の地平線」なのではないでしょうか。
 想像をさらに広げると、頭上や足元にもこのような構造が広がっていると考えれば、「認識の地平線」はじつは一種の球形をしているものではないかということに気づきます。この球の外側にあるものは、どんなものでも肉眼で見ることは出来ないわけですね。
 なんだか不安になりますが、夜空の星はもちろん、いくつかの銀河さえも肉眼で見ることができますから、この地平線の球体は意外と大きいもので、目標物の大きさによって球体の大きさも変化しうるということになりますね。

「ルネサンスと深い関係がある」という個所を拝読しまして、ほぼ同時期に進行したヨーロッパにおける地理上の発見の時代(いわゆる大航海時代)以前の「世界はテーブル状で、すべてのものはそこに載っかっている。船で世界の端まで行くと、運が悪いと落っこちてしまう」という世界観を思い出しました。

 平行線というのは、空間の奥行きを図る一種のモノサシの役割をしてくれているのでしょうね。

投稿: Rough Tone | 2005/06/24 16:09

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