海の日に思う、日本人にとって海とは何か
明日7月18日は「海の日」で祝日だ。
この日がななぜ祝日となったのか、よく分からないが、祝日法では、この日の意味について「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」としている。
海の恩恵とは、海のもたらす新鮮な魚介類のことであり、また海運や港湾のもたらす恩恵のことだろう、と容易に推察される。
が、海洋国日本という言葉からは、いまひとつ実感できるイメージがわかない。
四方を海に囲まれた島国であることは、日本に繁栄をもたらしてきたのだろうか。
確かに、ユーラシア大陸のようにさまざまな国々が陸続きで争いごとが絶えないのに比べれば、日本は海によって温室の中のように庇護されている。
裏を返せば、いつまでたっても世界の潮流からはずれた位置にあって、目が他国に向かない鎖国状態にある、ともいえる。
日本の指導者たちに見えているのはアメリカだけであって、海の外の中国も朝鮮半島も、アジアの諸国すら見えていない。
海は日本人にとって、いい意味でも悪い意味でもバリアになっている。
3年前の2002年10月、北朝鮮から日本に帰国した曽我ひとみさんが、新幹線の中で綴った言葉が話題になった。
「今、私は夢を見ているようです。人々の心、山、川、谷、みんな温かく美しく見えます。空も土地も木も私にささやく。『お帰りなさい、頑張ってきたね』。だから、私もうれしそうに『帰ってきました。ありがとう』と、元気で話します」
曽我さんの日本語の美しさ、素直さ、力強さについては、いうまでもないのだが、この中に「海」が入っていないことについて、さまざまな見方が出ていた。
海は曽我さんにとって、拉致と連行の現場そのものであり、ふるさとの一部とはいえないのだろう、と見る人もいた。
そういわれてみると、童謡の「ふるさと」でも、「うさぎ追いしかの山」と「小ぶなつりしかの川」であって、歌詞の中に海は出てこない。
曽我さんの格別につらい体験とはまた別に、日本人には海をふるさとと見ることへの、違和感や抵抗感がどこかにあるように感じられてならない。
明治維新以降の日本が、海を戦争の足場として活用してきたという負い目があるからだろうか。
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