南方の戦線で、食糧が止まって餓死した僕の叔父
敗戦から60年目の8.15。
僕には、顔を知らない叔父さんがいた。
叔父さんは、南方の戦線で戦死した。
南方とはどこで、何という部隊に所属していたのかなど、詳しいことは知らない。
叔父さんは、職業軍人ではなく、赤紙1枚である日突然に徴用されたごく普通の日本の青年だった。
僕が両親から知らされたところでは、叔父さんは敵との戦闘で死んだのではなく、前線に食糧が一切送られて来なくなったために、部隊全員で餓死したのだった。
最前線の兵士たちにとって、食糧が送られてこなくなった状況というのは、どのようなものなのか、想像を絶する。
日本はミッドウェーでアメリカに大敗を喫したあたりで、彼我の軍事力の圧倒的な落差に気づき、みっともなかろうが国内で責任を問われようが、そこで戦争をやめるべきだったのだ。
ところが日本の指導者たちは、むしろ戦線を拡大し、勝算も収拾の算段もないまま、すべての民間人を巻き込んだ総力戦に突き進んだ。
ガダルカナルで、アッツ島で、サイパンで、壊滅的な敗戦をこうむりながら、大本営は皇軍の快進撃と連戦連勝を発表し続けた。
こうした状況では、前線への武器弾薬の補給や食糧の補給が行き詰ることは、当然の帰結であった。
最前線の兵士たちにとって、武器弾薬が断たれるのも地獄だが、食糧が送られてこないことは、生死に直結する。
僕の叔父さんたちの部隊は、食糧が尽きて、本国からはもう送られて来ないことを知った時、どのような状況に陥ったのだろうか。
軍歌の歌詞にあるように、おそらく叔父さんたちは、草を噛み泥水をすすって生き延びようとしたに違いない。
兜も焦がす炎天の中、餓死していく時に叔父さんは何を考えただろうか。
補給線を断たれ、いわば本国から見捨てられ見限られた形で、戦うことなく命を落としていった兵士たちは、あちこちの戦線で膨大に数に上るのではないか、と思う。
戦争指導者たちは、本国の安全な地下壕にこもって世界が見えず、まして前線で起きている地獄図のことなど想像することも出来なかっただろう。
僕は、空腹とのどの渇きに悶え苦しみながらなすすべなく、やがて意識がかすれて死んでいったであろう叔父さんの無念を思うと、悔しくてたまらない。
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