とっておき号外に見るあの時(3)-湾岸戦争
昭和から平成に変わって2年が経った1991年(平成3年)の正月、ペルシャ湾では前年後半から高まっていた軍事的緊張がピークに達していた。
90年8月にイラクがクウェートを侵攻・制圧したことに対し、アメリカを中心とした西側諸国は強く反発。イラク軍のクウェートからの撤退を要求して、ペルシャ湾に兵力を結集してしだいに圧力を強めていった。
これは「湾岸危機」と呼ばれ、西側の指導者は今のブッシュ大統領の父である父ブッシュであり、これに対するは後にイラク戦争で独裁者の座から引きずりおろされるサダム・フセインであった。
1月17日の未明。アメリカを中心とした多国籍軍は「砂漠の嵐」作戦と名づけて、バグダッド市内とクウェートのイラク軍に対する大規模な空爆を開始し、湾岸危機は湾岸戦争にエスカレートした。
この日の号外は、夕刊の1面と特設面をそっくり4ページの号外に仕立てたもので、信託銀行や予備校の広告などもそのまま掲載されている。
見開きには、ドキュメントなどさまざまな関連記事が載っていて、左面には「戦火の衝撃 世界を走る」、右面には「ブッシュ政権 危険なかけ」の大見出しが踊る。
見出しだけを見れば、後のイラク戦争の号外かと思うほどで、同じサダムを相手にブッシュ父子のやることはまさに父子鷹である。
4面には、湾岸地域の軍事力の比較が、イラストと表で掲載されている。
湾岸戦争の号外については、僕にとって忘れられない後日談がある。
空爆開始から1月余りたった2月24日、多国籍軍は空からの攻撃から一転して、地上からイラク領内に突入した。
その日は日曜日で、家に待機していた僕は、「多国籍軍、地上戦に突入」の号外配布のため、池袋駅前に行くよう電話で指示された。
号外を積んだ車から箱を受け取り、もう1人とペアで通行人に号外を配る。
左腕に数十枚の号外を乗せて、右手でさばいていくのだが、次から次へと通行人の手が伸びてきて、さばく速度が追いつかないほどだ。
「ください」「私にも」などと声をかけてもらっていく人もいれば、黙って受け取る人、「いくらですか」とたずねる人などさまざまだ。
僕にとって号外配布の経験は、後にも先にもこれ1回限りの貴重な体験だった。
すべてを配り終えて、気がついてみれば、自分の分はもはや1枚も残っていなかった。
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