1年3カ月ぶりに観た映画、「博士の愛した数式」
今日は、表の「時間の岸辺から」と連動して書く。
久々に映画館で映画を観た。
一昨年11月に「ハウルの動く城」を観て以来、1年3カ月ぶりの映画館である。
これだけ長い間、映画館に行かなかったのは、僕が物心ついてから初めてかも知れない。
久々に大きなスクリーンで映画を見て、映画館というのは暗いものなのだという、あたりまえの事実に、僕はあらためて驚いた。
日ごろ、テレビやパソコン、ケータイの画面を明るい中で見慣れている身には、ちょっとしたショックだった。
映画館の暗さは、ハンパな暗さではなく、真っ暗であり、闇なのだ。
この暗い中に存在している世界は、スクリーンの世界だけであり、それを見ている自分だけだ。
余分の光も見えず、余計な雑音も聞こえない。
これは、映画を鑑賞するという行為にとって、本質的な前提条件だったのだ。
僕は、テレビで放映する映画の意義を否定するつもりはないが、テレビやビデオで映画を観るのは、自分が一度見ている映画に限る、という気がする。
まったく初めて観る映画を、家でビデオで観たらどういうことになるか。
僕はかって、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」を初めて家のビデオで観た時には、こりごりしたものだ。
息をつくことも出来ない重要なシーンというのに、配達か何かで玄関のチャイムは鳴る、勧誘の電話はかかってくる、表でけたたましいサイレンが鳴る、さおだけ屋がのんびりと声をあげて通過していく。
さらに、不要家電の回収に回っている車がスピーカーで呼びかけてまわる。
結局のところ、こうしたモロモロの音によって、映画の内容に集中できないのだ。
久々に入った映画館は、こうした音や光のノイズを遮断していて、すっきりと映画に集中することが出来た。
評判どおりの素晴らしい映画だった。
タイトルにある「博士の愛した数式」がどんな数式なのかについては、表の「時間の岸辺から」の方に連動して書いた。
数と数式がこの映画を流れる横糸だとすると、縦糸になっているのが実に意外なことに、阪神タイガースと江夏である。
これ以上はネタバレになってしまうので書けないが、阪神ファン、とりわけ江夏のファンは必見の感動作だ。
(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の21世紀エッセイ「時間の岸辺から」に、「博士が愛したオイラーの公式の神秘的な美しさ」をアップロード)
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