ロッキード事件発覚から30年、児玉邸のゴルフボール
戦後最大の疑獄事件となったロッキード事件が、アメリカの議会で発覚したのが、30年前の今日2月4日だった、と今朝の朝日新聞「天声人語」が書いている。
もう30年前になるのか、という感慨とともに、天声人語にも書かれている「児玉番」の日々を思い出した。
ロッキード社から資金が渡ったとされた世田谷の児玉誉士夫邸前には、24時間態勢でマスコミが張り付き、出入りする人をつかまえては話を聞いた。
政財界の黒幕あるいはフィクサーといわれた児玉氏は、ロッキード事件のカギを握る最重要人物とみられていた。
児玉邸の前の張り込みは長期戦となり、まだ若かった僕は何回も児玉番のローテーションに組み入れられた。
マスコミの監視網の中で児玉邸を訪れる人は少なく、1日3交代で8時間見張っていても、ほとんど何も起こらない日々が延々と続いた。
最初は、車のエンジンがうるさい、煙草の吸殻や弁当の空き箱を散らかしっぱなし、と近所の人たちから苦情の絶えなかった見張り番だった。
やがてゴミは自分で持って帰るなどのルールが確立され、近所の人たちの中には、「寒い中をご苦労さんです」と熱いお茶を出してくれる人もいて、僕たちは感涙にむせんだ。
飲食店では、現場に出前もしてくれるようになった。
公衆電話から(そのころはケータイなどなかったのだ)、「児玉邸前の○○新聞です」といえば、社旗を目印に、麺類でも丼物でも届けてくれた。
そんなある日、児玉邸の庭から垣根を越えて、ゴルフボールがポーンと飛び出してきて、僕の目の前の道路にコロコロと転がった。
僕はゴルフボールを拾って、しげしげと眺めた。これを打ったのは、だれなのだろうか。
マスコミが周囲を取り巻く中、庭でゴルフボールを打つことが出来たのは、児玉誉士夫氏本人しかいないのではないか、と僕は想像した。
僕は、このボールに日付と場所を書き込んで、コートのポケットに入れた。
いつの日か、何年か後にでも、児玉誉士夫氏本人にもし話を聞く機会があったら、このゴルフボールを取り出して、マスコミ監視下にこのボールを打ったのはあなたでしたか、と聞いてみたかった。
児玉氏はやがて体調を崩して裁判にもほとんど出ることなく、1984年1月17日、72歳で世を去った。
手元のゴルフボールには、30年前の僕が書いたボールペンの文字が、消えずに残っている。
1976.2.22 児玉邸
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