ビキニ水爆実験と第五福竜丸の被爆
今日3月1日は、三一ビキニデーである。この言葉は、もう死語になってしまったようで、新聞には1行の記事すら載っていない。
僕が学生のころには、この日は、核兵器廃絶を求めるなにがしかのデモや集会が各地で行われていた。
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で15メガトンの巨大な水爆実験を行い、島3つを吹き飛ばした。
米政府が想定していた危険水域の外で操業していた焼津のマグロ延縄漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が被爆した。
「船の位置を観測し終えたとき、光が天に昇ってきた。白い光が一斉に前からも後ろからも上がってくる。あまりにも突然で、天空を圧倒した。最後は炎となって大空を焦がした」と、漁労長は後に語った。
3月14日、第五福竜丸は焼津に帰港した。被爆の惨状はまだだれにも知らされていなかった。
翌15日、出先の記者クラブにいた読売新聞焼津通信部の安部光恭記者のところに、下宿先のおばさんから電話がかかってきた。
「14日に入港したマグロ漁船の船員たちが妙なヤケドを負っているという話だよ。ビキニ環礁のそばで強い光を見て間もなく、空からふってきた白い灰をかぶったらしい」
安部記者は電話を切ると、他社の記者たちには「オヤジが急病になっちゃった」と言って飛び出した。
これが読売新聞の世紀の大スクープの発端だった。
翌16日の読売新聞朝刊1面は、「邦人漁夫 ビキニ原爆事件に遭遇」「23名が原子病」の見出しで、ヒロシマ・ナガサキにつぐ衝撃の3度目の被爆の全容を報じた。
半年後の9月23日、無線長の久保山愛吉さん(40歳)は、「身体の下に高圧線が通っている」「原爆被害者は私が最後にしてほしい」と言いながら死んだ。
安部光恭記者はこの大スクープで、第3回菊池寛賞を贈られた。
僕は中学の時に、学校の図書館で、この大事件スクープのいきさつを読んで非常な感銘を受けた覚えがある。
3月1日になると、僕はいつもこの話を思い出す。
「第五福竜丸」は、のちに新藤兼人監督によって映画にもなった。
この映画で久保山愛吉さんを演じたのが、「博士の愛した数式」で好演した寺尾聡の父、宇野重吉である。
もうひとつ、この事件から誕生した世界的な反核・反戦映画があった。それがこの年の秋に公開された「ゴジラ」である。
これについては、2月9日のブログ「ゴジラ音楽の伊福部昭さん死去」のほうに書いているので、そちらをご覧いただきたい。
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