3億円事件の時代背景と、映画「初恋」
3億円事件の実行犯は女子高生だった、という意外な設定による映画「初恋」を見てきた。
平日の午後というのに、客席はほぼ満員で、最前列の左右両端すら埋まっているほどの活況だ。
映画批評などで、「設定に無理がある」というような批評もあったので、僕もそのあたりは覚悟して見に行った。
この映画の前半は、新宿のジャズ喫茶にたむろする若者たちの鬱屈した退屈そうな様子が延々と描かれる。
その中に入っていく宮崎あおいも、暗く不安定で投げやりな雰囲気で、これがどうやって3億円事件と結びついていくのか、と最初は不思議だった。
だが、宮崎がその中の一人の東大生に恋をして、彼から3億円事件の実行犯を頼まれるあたりから、映画の流れが一変していく。
前半のけだるい暗さがあって初めて、宮崎が実行犯を引き受ける必然性が生きてくる。
犯行の下見をするあたりから、宮崎の表情が生き生きとしてきて、だんだんきれいになっていく。
こうして見ていくと、設定の無理はそれほど感じずに、むしろ宮崎あおいのような少女なら、実行犯をやったかも知れないという気になってくる。
僕は、3億円事件そのものが、もともと設定に無理があるのに実現した奇跡のような事件であり、事件それ自体が荒唐無稽なあり得ないプロットだったのだと思う。
しかし現実に、3億円事件は起きたし、犯人像すらつかめないまま時効となって、しかも今日に至るまで奪われた現金は1枚も使われていない。
あり得ないような事件が成功し、迷宮入りしたのはなぜか。
当時、この事件は、警察当局が東京・多摩地区の新左翼活動家たちをしらみつぶしにチェックするローラー作戦のために、権力によって仕組まれたものだ、という説が根強く流れていた。
警察関係者が関わっているのか、逆に反体制あるいはカウンター・カルチャーが影を落としているのか、いずれの見方も成り立ちうる事件である。
事件が起きた1968年という年はいろいろな意味で20世紀の転換点だった。
僕の表サイト「21世紀の歩き方大研究」の中の「2001年宇宙の旅フォーラム・全記録」では、1968年に製作された「2001年宇宙の旅」の時代背景について、突っ込んだ議論が交わされているくだりがある。
一部を引用してみると‥
この年は、いろいろな意味で、シンボリックな年だった。アラン・ケイがパソコンを構想した年であり、マクナマラが国防長官になった年であり、アメリカが北爆をあきらめた年だった。パリでは、カルチェラタンに火がついて5月革命が起こり、日本では東大の安田講堂封鎖が始まった年だった。カウンター・カルチャー、カウンター・パワーが一気に噴き出した年だった。それに呼応するかのように、翌年、アポロ11号が月面に着陸した。半導体、シリコンチップについての議論が出始め、LSIが発表された年でもあり、コンピューターの歴史によってのターニングポイントの年だった。(松岡正剛氏)1968年は、20世紀後半の思想、文化、芸術を語る上で、大きな転換となった、極めて重要な年だった。スチューデント・パワーが噴出し始め、学園闘争が始まった年だった。自由と平等、産業化という近代に対しての、20世紀のカウンター・パラダイムが出て来たと言っていい。アメリカ、フランス、イタリア、西ドイツ、ユーゴ、日本と、各地でスチューデント・パワーが爆発した。今、世界は同時につながっていると言われるが、この年は、こうした運動がネットワークとして自然発生した面白い年だった。 「2001年」の映画は、こうしたカウンター・カルチャーの中でとらえると、神とか人類の進化、人類の意識の拡大、ボーマン船長の体験は、メディア感覚の変容が迫られていることの先取りではないのか。古代のセム的な神、東洋の神、チベット密教、イスラムの神、これらの超越的な体験をドラッグでやろうとした年だった。近代に対するカルチャー・パラダイムが出始めた1968年という年が、「2001年」の映画を支えている。(合庭惇氏)
3億円事件もまた1968年を象徴する事件であり、実行犯が予想外の誰であっても驚くことはない事件だったのだいえる。
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