何十年ぶりに「カラマーゾフの兄弟」を読んで
少年時代から数えてこれまでに3回読んでいるはずのドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」を、何十年ぶりかで今日読み終えた。
最後に読んだのは僕が32歳の時だったから、まだ僕自身が人生や社会の何たるかもよく知らないころだったといっていい。
今回4度目の挑戦は、5月17日から約2カ月近くかかった。
僕はこれまで、この小説のストーリーについては大筋は記憶していたと思っていたのだが、今回読み返してみて、僕がこの小説をほとんど知らないに等しかったということに驚きを禁じえなかった。
驚きというよりは、むしろ衝撃といっていい。
例を挙げれば、僕はこの小説の中で、とりわけ印象に残っているくだりが2つあり、「カラマーゾフ」といえばすぐにその場面を思い浮かべてきた。
1つは、ドミトリーが愛する女性を半ば腕づくで強引に連れ出し、駆け落ちのような形で馬車に乗せて全力で疾走させて行く場面。
もう1つは、ドミトリーが裁かれる法廷で、イワンの前に「悪魔」が現れ、イワンが机をはさんで椅子を振り回すなど錯乱状態になる場面。
ところが、僕にとって何よりもショックだったのは、その2つの場面とも、小説にはなかったことだった!
僕は何十年という歳月の中で、記憶が変形し、元の形から大きく離れてとんでもない思い違いになっていることに気づかないまま、偽りのシーンをありありと記憶してきたのだ。
さらに、過去に読んだ時には、退屈で読み飛ばしていた数多くの挿話、エピソードの一つ一つが、今回は実に新鮮で味わい深く、僕にとってはいずれも初めて読む話ばかりだった。
2人の女性のうち、カテリーナについては傲慢と自尊心の強さ、そして土壇場での決定的な裏切りに対して、読者として激しい憤りを感じた。前に読んだ時は、これほど鼻持ちならない女性とは思わなかった。
一方のグルーシェンカについては、妖婦のようなところがある一方で、後半はしだいに天使あるいは聖母のような純真さが増していって、心洗われる思いがする。
もしも、当初の構想通りにこの小説の第2部が書かれていたならば、アリョーシャはグルーシェンカに本気で恋をして苦悩することになるのではないか、と思ったりする。
今回の読書で初めて気づいた重要ポイントは書ききれないほどあるが、ドミトリーが自分を語るくだりで、シラーの「歓喜に寄す」を引き合いに出していたことにも驚いた。
この小説の中に通奏低音のように流れている熱い思いは、ベートーベンの第九の「歓喜の歌」と共通するものがあるように思う。
本筋とは離れて随所に描かれるスネギリョフ一家の極貧で悲惨な生活ぶりは、ドミトリーが夢の中で見た百姓たちの貧しさと凍えた赤ん坊とともに、「神」が作り出した世界の深刻な現実を突きつける。
それは、イワンが厳しい論理で糾弾していった無垢の子どもたちが受け続けている不条理な受難につながり、現代の僕たちがまさに今突きつけられている問題そのものといっていい。
ドストエフスキーは、この小説の中で、来たるべきロシア革命やそれから何十年後かの社会主義の崩壊すら予感していたのではないか、とさえ思わせられる。
予感性、先見性の卓越さは、この小説が21世紀になってますます現代的な意味と輝きを増してきている理由でもあろう。
小説が書かれたのは、ソ連が人類初の人工衛星を成功させる70年も前だというのに、イワンの前に出現する「悪魔」がスプートニクについて語るくだりがあったのには、改めて舌を巻いた。
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