37年前の甲子園決勝引き分けの日、僕は
夏の甲子園決勝は、駒大苫小牧・田中将大投手と早稲田実業・斎藤佑樹投手の一歩も譲らぬ力投を軸とした素晴らしい熱戦に決着が着かず、1-1のまま延長15回引き分けで明日再試合となった。
決勝の引き分け再試合は、1969年(昭和44年)8月18日、あの伝説となった青森・三沢と愛媛・松山商による延長18回引き分け以来、実に37年ぶりのことだ。
僕は37年前、今日と同じ熱い夏空の下、三沢の太田幸司投手と松山商の井上明投手を軸とした劇的な試合を、街頭の電気店のテレビで観戦していた。
テレビの前は、歩道を埋め尽くす黒山の人だかりで、両投手の一球一球をみな息を止めて見守っていた。
その日は、僕にとって後にも先にもたった1回だけの経験となったお見合いの日だった。
僕はまだ結婚など全く考えてもみなかったのだが、親同士が相談して日取りと場所を設定してしまったのだ。
三沢と松山商の試合が延長に入り、僕のお見合いとして設定された約束の時間は過ぎてしまった。
しかし僕は、もうじき決着がつくに違いないと思いながら、街頭のテレビの前にくぎづけになっていた。
そして、15回、16回、17回と進んでも0-0のまま決着が着かず、試合は18回へと進んでいった。
もうお見合いどころではないな、と僕は感じていた。
それよりも、歴史的なこの大試合の行方を見守ることこそ、僕にとっては一生に一度あるかないかの経験ではないか、という気がした。
延長18回が終わって、この死闘は日本のスポーツ史にいつまでも語りつがれることだろう、という意味のことを実況中継のアナウンサーと解説者が語っていた。
その余韻がさめやらない状態で時計を見ると、約束の時間から1時間半が過ぎていた。
もう、お見合いの相手も、両方の親も、とっくに帰ってしまったに違いないと思いながら、指定された喫茶店を覗いてみた。
驚いたことに、大幅に無断で遅刻したにもかかわらず、まだ一行は僕を待っていた。
僕は、甲子園の決勝が延長18回引き分けとなってしまい、それをテレビで観戦して、と、しどろもどろの弁解をして席に着いた。
相手の女性とは、僕は初対面だったが、一生を決めるかもしれない大事な場をほったらかして、テレビで野球観戦をしていたとは、相手に申し訳ない気持ちだった。
親同士がころあいを見て席をはずし、僕はその女性と二人きりになったのだが、なんだかとても気まずい雰囲気となって、30分もたたないうちにお別れをした。
この話はそれ以上進まず、僕にとって再び他の人とお見合いをすることもなく、歳月が経過した。その時の相手の女性は、ほかの男性と結婚したと、風の便りに聞いた。
さらにさらに多くの歳月が過ぎて、僕の親が亡くなった時のことだ。
一人の婦人が、激しく泣きじゃくりながら、お焼香に訪れた。
たまたま僕が応対に出たのだが、この女性こそ、あの日、僕が高校野球の延長18回引き分けをテレビで見ていて、お見合いに大幅に遅れてしまった、その時の相手の女性だった。
お焼香をする間も、彼女は声を上げて泣き続けていた。
僕は、「ありがとうございました」と言葉少なに見送るだけが精一杯だった。
あの時、三沢と松山商の試合が引き分け再試合にならずに、もっと早い段階で決着が着いていたら、僕の人生と運命は、今とは変わったものになっていただろうか。
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