トルストイの「戦争と平和」読了
先月8日から読み始めたトルストイの「戦争と平和」全4冊を、約50日かかってようやく読み終えた。
この作品を初めて読んだのは、僕が高1の時の夏休みで、以来、僕にとっては数十年ぶり2度目の挑戦となった。
前回読んだ時の記憶はもうほとんど残っておらず、すべてが初めて読むのと同じ新たな驚きだった。
小説の登場人物が559人というのはよく知られている数字だが、読んでいく途中で人物の関係が混乱しないよう、新たな登場人物が最初に出てきたところで、人物の名前とそのページノンブルをノートに書き込んでいくやり方で、かろうじてこの大河小説を読みきることが出来た。
僕は、名前のはっきりしない登場人物はメモしなかったが、それでも僕のノートには13ページ半に渡って391人の登場人物の名前がメモされた。
高1の時にはこんな作業はしなかったが、人物関係などはほとんど分からないまま、ただ読みきりたいという欲求から勢いにまかせて読んだのだろうと思う。
今回は読み始めてから今日まで、僕は小説のページを開くたびに、たちどころにして1812年前後のモスクワやペテルブルクに、時間・空間をやすやすと越えて入り込んでいくことの出来る不思議な快感に酔いしれた。
それは、僕が現在生きている実世界とまったく対等の、広大なもうひとつの世界であり、本の中の虚構の世界とは思えない迫真力に満ちていた。
とりわけ見事だと思ったのは戦場の場面で、戦闘における一人一人の兵士たちの克明な描写が生々しい。
200年前の、それもまだ飛行機のなかった時代の戦争ではあるが、ナポレオン軍もロシア軍も、展開する先々ではほとんど全域の民家や農家を接収して拠点とし、さらに住民たちや農民たちから取れる限りの食糧や物資を徴収していく様子が、僕にとっては驚きだった。
戦時下では、民衆の平和な暮らしもまたすべて根こそぎ覆される。戦場となった地域はもちろんだが、軍が移動していく地域では、もはや人々は住居も食糧も物資もすべて軍に差し出すのが、総力戦の戦争では当然のことなのだ。
現代の戦争では、兵士たちの直接の戦闘ではなく、はるか離れたところからボタンを押す核弾頭ミサイルの応酬によって、1時間も経たないうちに全人類は破局を迎えるとされており、もはや小説となるストーリーすら存在しないのではないか、と思ったりする。
4冊読み終えた時点で、多くの登場人物たちが年老いて、あるいは戦争で亡くなっているのも、実人生のような感じがする。。
すっかり感情移入してしまったナターシャやピエール、ニコライ、マリアたちの見違えるような成長と変化も感慨深い。
ソーニャだけが幸せになることなく、みんなに献身的に尽くしながら、割の合わない人生のままで、小説が終わっているのは、なんとも可愛そうな気がしてならない。
GW前に読み終えるという目標が達成されたことにホッとしながらも、この小説世界ともこれでお別れかと思うと、名残り惜しい気がする。
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