ゴーゴリの「外套」とドストの「分身」
最近、ふと気が向いて、二つの小説を読んでみた。
一つはゴーゴリの短編「外套」で、はずかしながら、僕がゴーゴリ作品を読むのはこれが初めてである。
貧しい九等官のアカーキー・アカーキエヴィッチの泣くに泣けない悲惨な物語は、ちょっとしたショックであった。
ラストの不思議で、それでいて深い余韻には、切ないような、そして救われたような気がしてくる。
ゴーゴリって、こんなに面白かったのか、と目からウロコの思いだ。
もう一つは、ドストエフスキーの中編「分身」(写真右にあるのが、実はそれなのだが)。
ドストの作品の中では2番目に書かれたもので、ドストに関する評論などを読むと、これが最も優れた作品、と評価する人さえいる。
ところが、それほどの作品でありながら、紀伊国屋などの大きな書店で検索しても出てこない。
ネットで調べてみると、同じ作品なのに日本では2通りのタイトルがつけられていて、「分身」というタイトルのものはすでに絶版になっている全集版にしか収録されてなく、入手可能な文庫版では「二重人格」というタイトルで岩波から出ていることが分かった。
どうして2通りのタイトルがあるのだろうか。これでは混乱してしまうではないか、と思うが、訳者の好みによってどっちのタイトルにするかを決めているので、仕方のないことらしい。
この「分身」こと「二重人格」もまた、うだつの上がらないゴリャートキンという九等官の物語である。
こちらの方は、書き出しからしばらくは読みづらい感じがしたが、もう一人のゴリャートキンが登場するあたりから、俄然、面白くなってきて、読むのを止められなくなる。
姓名も姿かたちもそっくりで、同じ役所で働く二人のゴリャートキンは、性格も仕事振りも対照的。物語は、ドストには珍しくコミカルな展開を散りばめながら、しだいに幻想的な様相を帯びて絶望的な結末へとなだれこんでいく。
今回読んだ二つの小説の主人公とも、同じく九等官という官職だったのは偶然だが、それよりもこの二つの小説に共通しているのは、ペテルブルクという都市と密接に結び付いた都市小説になっている点だ。
フィンランド湾に面した湿地帯に、突貫工事で建設された人工都市ペテルブルクの、ロシアでもヨーロッパでもない二重性が、この街に虚実がないまぜになった幻想性を醸し出し、これらの小説に幻影もしくは残照としてまとわりついているのではないか、という気がする。
ペテルブルクを舞台にした小説といえば「罪と罰」をいつかもう一度読んでみたいと思っているのだが、新潮文庫から文字の大きくなった版が出る気配がいっこうにないので、なかなか踏み切れないでいる。
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