ドストエフスキー「罪と罰」を45年ぶり再読
ドストエフスキーの「罪と罰」を久々に再読した。
僕ここ数年、ドストの作品については、文字が大きくなった新潮文庫の中にあれば、初挑戦したりあるいは再読したりしてきた。
ところが「罪と罰」だけは、いつまで待っても文字が小さい新潮文庫のままで、大きな文字にならないのだ。
ほとんどあきらめていたところへ、たまたま岩波文庫のワイド版の棚を見たら、なんとこちらのワイド版に「罪と罰」が出ているではないか。
ワイド版というのは、文字の小さな文庫本の組版はそのままに、全体を拡大コピーしたようなもので、本そのものの縦横の長さは1.4-1.6倍くらいになっている。
上の写真の左側が、岩波文庫ワイド版で、右側が河出書房新社の全集版。どちらも「罪と罰」の冒頭部分だ。
こうして見ただけでも、岩波文庫のワイド版がいかに読みやすいかが分かる。
ということで、去年の11月から、高校の時に読んで以来、実に45年ぶりくらいに「罪と罰」を読み始めた。
途中、出版の仕事によって2カ月ほど中断し、今月に入って再開して、ようやく全3巻を読み終えた。
物語のどの部分も、かつて読んだ記憶は全く蘇らない。本当に僕は、高校の時のこの小説を読んだのか、疑問に思うくらいに、このストーリー展開はすべてが全く新しく見聞きする内容だった。
犯行直後から、ラスコーリニコフが心理的に追い詰められていく描写は生々しいが、僕は今ひとつ、この主人公の行動や心境に共鳴出来ないのはなぜか。
それは、犯行の壮大な「動機」が、あまりにも観念的で青臭く、しかもその後の彼の行動が、どこかチマチマして小粒に感じられるせいかも知れない。
むしろ僕が圧倒的な感銘を受けたのは、ソーニャの一家の、あまりの悲惨さであり、みじめさであり、貧しさだ。
落ちるところまで落ちた境遇の中でも、精神を真っ当に保ち続け、あまつさえラスコーリニコフを更生に導いていくソーニャこそが、この小説の支柱であり、エピローグの清々しい読後感は、ソーニャによるところが大きい。
存在感ということでいえば、スヴィドリガイロフとポルフィーリーが強いインパクトがあり、印象的だった。
最も印象に残っているシーンは、エピローグの終わりの方に出てくる病気になったラスコーリニコフが見た幻覚のような夢だ。
これは、まさに21世紀の現代、世界のいたるところで現実に起きている、諸々の惨状そのものではないか。
150年以上も前の19世紀の中ごろに、このような世界を予知夢のごとくにリアルに描いたドストの先見性には、驚嘆してしまう。
「罪と罰」は、近いうちにもう一度、最初からゆっくりと読み返してみたい。この次読む時には、少しはラスコーリニコフに共感できるところがあるだろうか。
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