区が立会って金塚地蔵を撤去、永住の地はどこに

東京都の道路拡幅で121年間住み慣れた地を追われる北新宿3丁目の金塚地蔵が、この地での最後の供養から2日後の26日午後、新宿区文化観光国際課の担当者の立会いのもと、石屋さんたちによって撤去作業が行なわれた。
金塚地蔵は、造られてから256年もの歳月を経ているだけに、着物を取った姿には過去に修復をほどこした痕跡が見られ、さらに石の崩壊を防ぐために針金を全身に巻かれていて、撤去作業は慎重に進められた。
通りかかった地元の人たちの中には、「以前、このお地蔵さまにお参りしたら、なぜか煙草が嫌いになって不思議に思っていた。禁煙のご利益があるお地蔵さまだということは、後から知って驚いた」と話す人もいた。
金塚地蔵の隣の道標石も亀裂が入っていて、崩れないように同様の針金を巻かれていた。
地蔵堂内部に架かっていた木製の看板の裏には、戦火で焼けたらしく焦げたまま半分ほど残っていた古い看板が重ねてあるのが見つかった。
古い看板には地元民の名前が書きつらねてあり、その内容からみて、かつて地蔵堂を再建した人たちの氏名らしい。日付のところから後の部分は消失しているが、かろうじて「昭和」という文字が読める。
地蔵堂内の3体のお地蔵さまと、道標石、庚申塔、それにこれらの看板などは、いずれも撤去後は400メートルほど離れた鎧神社に移された。ここでとりあえず保管されて、その後の永住の地を探すことになる。
区の担当者は、「どういうふうに保存していくかは、地元の方々の意向しだい。区が出来ることは、そのお手伝いをすること。(地元で移転先が決まらなければ)最悪の場合は、新宿歴史博物館で保存ということもありうる」と話している。
道路拡幅工事は、これから相当の年月をかけて行なわれるため、拡幅後のこの近辺にお地蔵さまたちが復帰できる場所を確保できるかどうかは、今のところまったく未知数だ。
一地元民としての僕の思い入れからすると、道端でこの地を見守り続け、この地で多くの無数の庶民の信仰を集め続けてきたお地蔵さまや石造物は、道路拡幅後にはやはり道端に戻して差し上げるのが最善の道だと思う。
最初から地元での保存は難しいと決めてかからずに、ここは時間をかけてでも、最善の道を探るのが、今という時代に生きる僕たちの、歴史と未来に対する責任のような気がする。
なにしろ、金塚地蔵が造られたのは宝暦2年(1752年)、明治維新より100年以上も昔の江戸時代の只中に遡るのだ。
永住の地が定まるまでに、今後3年や5年、あるいは10年を費やそうとも、それはお地蔵さまにとってはほんの一瞬のことである。
悠久の時間の流れの中で、お地蔵さまの安住の地は、いずれ落ち着くところに落ち着いていきそうな気がする。
【注】この記事には続報があります。
09年7月29日付け
10年7月23日付け
| 固定リンク
| コメント (4)
| トラックバック (0)
地蔵盆の24日夕方、北新宿3丁目の金塚地蔵前で、関係者や地元民が炎天下の歩道で見守る中、現在地での最後の供養が営まれた。
宝暦2年(1752年)につくられたと伝えられる北新宿の金塚地蔵が、道路拡幅によってその座を追われることになり、いったんは近くの寺の境内に移転することでまとまりかけていたが、一転して移転話はご破算となり、今月24日の地蔵盆を最後に撤去されて処分されることになった。
地蔵堂は、大久保通りと小滝橋通りとの交差点の角に、金物屋の壁に組み込まれる形でひっそりと建っている。
このお地蔵さまが、道路拡幅によって立ち退きのピンチに立たされているという話は、
僕は毎年、同じ医療機関で人間ドックを受けていて、去年までは1週間前に申し込んでも余裕で予約が出来ていた。
僕がごま書房から出版している「サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー」の本が、環境緑化新聞(東京・インタラクション社、月2回発行)の7月1日号で、詳しく紹介されている(写真)。

最近のコメント