宮崎駿監督作品『崖の上のポニョ』を観てきた
宮崎駿監督作品の『崖の上のポニョ』を観てきた。(以下、部分的なネタバレあり。これから観ようとしている方は、ご注意を)
CGを使わず、すべて手作りの原画にこだわった映像は、どこか懐かしく、そして新鮮に感じられる。
ストーリーの原型は、アンデルセンの「人魚姫」にあることは宮崎監督自身が述べていることだが、この映画は魚の女の子が人間の男の子を好きになってしまうという童話の粋をはるかに超えて、すさまじい映像美とダイナミズムによって、観る者を圧倒する。
この映画の評については、さまざまなところでたっぷりと書かれているので、それらと重なる感想は省くとして、僕が心にとまった点をいくつか書いておきたい。
まず、強烈な印象を受けるのは、ポニョの父であり、かつては人間だったというマッドサイエンティストのような、あるいは魔法使いのような、海の中に住む男(パンフレットによるとフジモトという名前)の存在だ。
この男は、海の持つはかり知りない生命の力に魅せられ、すべての生命が海に由来することを深く理解しているが故に、生態系のバランスを崩した人間という存在を憎み、みずから人間であることをやめて海の生き物たちとともに生きる異界の道を選んだのだろう、と僕は推測する。
彼は、海の生き物たちすべての母であるグランマンマーレに愛情を持ち続けていて、二人の間にはポニョやその妹たちがうまれた。
フジモトとグランマンマーレの恋のいきさつや交わりについては、映画では何も触れられていないが、僕の空想と妄想の中では、ここはとても大切なくだりのように思える。
この二人を父母としてうまれたポニョとは、どういう存在なのだろうか。
ポニョの本質を解くカギとなるのは、フジモトのセリフにある「カンブリア紀にも匹敵する生命の爆発‥」ということばであり、グランマンマーレのセリフにある「デボン紀の海」ということばだろう。
これは5億4000万年前から4億年前、海の中で生物が爆発的な進化を始め、やがてその中から初めて陸に上がる生き物たちが登場してくる時期だ。
僕が作成した「地球カレンダー」でいえば、11月18日ごろから11月29日ごろにかけての、進化の最大のドラマの時期にあたる。
大胆な解釈をためらわずに言うならば、ポニョとは、海の中で進化した生物が現在の人間になるまでの、5億年の生命の歴史の凝縮であり具現化であり、5億年の進化を一身に背負ったシンボル的な存在といえる。
ポニョが人間になる時に、魚からいったん両生類を思わせる手足が生えて、それがまたたくまに人間の手足になる様子は、まさしく進化のプロセスの早送りなのである。
フジモトが、人間に絶望して人間として生きる道をやめたのと逆に、何も知らない無垢そのもののポニョは、魔法を使う能力を捨ててでも人間になる道を選ぶ。
父の反対を押し切り、父とは正反対の選択をしたポニョのいじらしさ、健気さが、観る者の心に突き刺さる。
それは、ごくわずかではあるが、人間にもまだ希望を託せる可能性が残っている、という宮崎監督のメーッセージなのだろう、と僕は受けとめたい。
ラスト近くでの海の波乱によって、街が海底に沈むシーンは、温暖化による海面上昇を暗示したものとも受け取れるが、そこまで深読みしなくても、水没した街の様子は幻想的な宮崎ワールドとして楽しめる。
デイケアサービスセンター「ひまわりの家」のお年寄りたちが、水没した街の中で、車椅子なしで元気に語り合っている様子は、一瞬、水没によってあの世に行った姿なのかとも錯覚した。
そのような悲劇的な展開にはならず、お年寄りたちはみな車椅子なしで元の「ひまわりの家」に戻ることが出来て、これはグランマンマーレの持つ生命力によって若返りのパワーをもらったのかも知れない、と思う。
話は飛ぶが、ポニョと仲良くなる男の子が、自分の母親を、おかあさんとかママとか呼ばずに、リサと名前で呼んでいるのも、なかなか興味深い。父親が仕事で不在がちの中、この母子関係には友達関係に通じるようなものが生じていたのだろうか。
最後にもう一つ、物語の要所要所に出現する、クレーターがデフォルメされた大きな月が印象的だ。
海と月、そして女性。これはすべて、生命の源であり、人間を含めてすべての生きとし生くるものを生み出す母である。
この映画は、ポニョと男の子の可愛い愛の流れを軸に展開しつつも、、より本質的には、沸き出ずる生命の源泉についての物語であり、すべてのものの「母」についての物語なのだと思う。
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