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2009/01/27

ケータイのカメラで夕陽を撮る

090127いつの間にか、日が長くなっているのに驚く。冬至のころに比べて、日没時刻は30分以上も遅くなっていて、日の光にも早春の兆しが感じられる。

窓の外を見ると、いままさに赤々と燃える夕陽が遠くの山の端に沈まんとしているところだ。

この赤い夕陽を赤いままで、ケータイに撮ろうとするが、全体が白っぽくなり過ぎて赤い色が出ない。

目で見ている光景に比べて、レンズを通すと夕陽の光度が強すぎてハレーションを起こしてしまうのだ。

あと数分で夕陽が隠れるという中で、ケータイの撮影設定を変えて、明るさ調整をミニマムにしてみる。

これでようやく、ケータイの画面に、目で見ているのに近い色の夕陽が写し出される(写真)。

地上の光景よりも、刻一刻と色が変化していく空の様子を大きく取り込んでみる。

1月もあと4日で終って、もうじき2月。

一週間後は、節分だ。そろそろ、ヒイラギを買っておくとするか。

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2009/01/26

出前一丁はなぜ店頭から消えたのか?

090126僕が即席麺を食べなくなって久しいが、このところ、どういうわけか突然、あの出前一丁がむしょうに食べたくなった。

数年前までは、スーパーやコンビニに普通に置いてあった記憶があるので、簡単に買えると思っていたのが大間違いだった。

僕の行動範囲にあるスーパー、コンビニ、食品専門店、デパ地下など、さまざまな売り場を駆けまわって見たが、出前一丁はどこにも置いてない!

袋麺の出前一丁だけでなく、カップ麺の出前一丁すら見当らない。これはいったいどういうことだ?

出前一丁は発売終了になったのだろうか、と心配になって、ネットでいろいろ見てみると、なんと海外では出前一丁が大人気ではないか。

香港では20種類もの出前一丁がスーパーの棚に並んでいるし、ロンドンやスイス、東欧などでもさまざまなバージョンの出前一丁が手に入るらしい。

日本人には出前一丁を食べさせないつもりか、と憤慨しつつ、さらにネットで見ていくと、日本でも通販なら出前一丁のオリジナルバージョンを扱っている。

そこで、送料がかかるのがもったいないが、通販で取り寄せてみる(写真)。

ラーメン鍋に湯をわかし、ドンブリに粉末スープを入れて、沸騰したお湯で3分間煮る。

出来上がったら、卵とネギを入れて、添付のゴマラー油をかける。このゴマラー油の香りと、シコシコ麺の美味しさは、40年前をほうふつとさせる懐かしの味だ。

日清食品のサイトを見ると、出前一丁は5食入りパックが希望小売り価格500円で、全国で発売中ということになっている。

それならば、なぜスーパーなどの店頭に出前一丁がないのだろうか。僕の近辺のスーパーにないだけで、ほかのところは置いてあるのだろうか。

もしかすると、日本人がおしなべて面倒臭がりになり、ラーメン鍋で3分煮てからドンブリに移す手間が惜しくなり、お手軽なカップ麺たちに駆逐されて売れなくなってしまったか。

同じ日新食品でも、袋麺のチキンラーメンはスーパーの棚に積んであるので、面倒臭がり原因説は案外、当たっているかも知れない。

ついでに、僕も初めて知った薀蓄だが、出前一丁のパッケージの出前坊やが持つ「おかもち」は、当初は右手で持っていたのが、いつしか左手で持つようになり、今また右手で持つ姿にカムバックしたのだという。

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2009/01/10

ドストエフスキーの『地下室の手記』と『鰐』

0901101_2ドストエフスキーの文庫本を2冊読んだ。

1冊目は、『地下室の手記』。僕は最初、この小説を光文社の古典新訳文庫で読もうと思って買ってきた(写真左)。

そして読み始めたとたんに、訳に違和感を覚えて、つまづいてしまった。

冒頭は、こんな調子で始まる。

俺は病んでいる‥‥。ねじけた根性の男だ。

そして終始、この調子で続いていく。

これはまあ、まだ俺が若かったころの話だ。しかしだな、俺がねじけた根性で意地を張ること関して、最大のポイントはどこにあるか、あんた方はそれを知っているかね?(安岡治子訳)

この一人称の「俺」という訳し方に、僕は首をかしげてしまう。

ロシア語の原文は、Я(ヤー)なのだろう。

これを「俺」と訳したら、読む者は最初から、日本語の「俺」が持つ特定のイメージに縛られてしまい、小説の内容そのものが歪んで伝わってしまうことにならないか。

「俺」という一人称で綴られた小説からは、どこか反抗的で意地っ張りで、ひがみ者、そして威張りくさってアウトローを気取る天邪鬼、等々の先入観がどうしても入り込んでしまう。

僕は、2、3ページ読んだだけで、この訳で読むのを止めて、別の訳者による新潮文庫版の『地下室の手記』を買ってきた(写真右)。

こちらの冒頭は、こうなっている。

ぼくは病んだ人間だ‥‥ぼくは意地の悪い人間だ。

そして先の箇所は、こう訳されている。

もっとも、これはぼくがまだ若いころの話である。ところで、諸君、ぼくの憎悪の最大のポイントはどこにあったか、ご存じだろうか?(江川卓訳)

「俺」と訳すのと、「ぼく」と訳すのでは、文章のトーンや雰囲気、いわば小説の世界がまるっきり別物になってしまうのだ。

この小説は、過剰な自意識に苦しめられながら、ますます自我の「地下室」に閉じこもって、自虐的・他虐的になっていく主人公の物語で、ドストの転換点となった作品とされている。

それだけに、「俺」では特殊な人格に帰しておしまいという話になりかねないが、すなおに「ぼく」と訳すことでこそ、誰もが思い当たる自意識の問題として普遍性を帯びてきて、現代にも通ずるテーマとして成立するのではないか、という気がする。

海外の文学作品、とくにドストのように人物と社会的背景が不可分の小説では、どの訳で読むかが非常に重要な問題だと思う。

【1月21日追記】
さらに別の訳者による『地下室の手記』を入手出来た。現在は絶版になっている河出書房新社のドストエフスキー全集の第5巻で、こちらは一人称の訳し方が「俺」でも「ぼく」でもなく、「わたし」になっている。これまた、ずいぶん印象が違うものだ。

冒頭の部分はこうだ。

わたしは病的な人間だ‥‥わたしは意地悪な人間だ。

また上記で引用した箇所は、次のようになっている。

ただし、これはまだわたしの若かった頃の話である。しかし、諸君、わたしの天邪鬼(あまのじゃく)のおもなる点がどんなところにあったか、諸君に想像がつくだろうか?(米川正夫訳)

追記箇所はここまで-----------

 
 
0901102もう一冊は、講談社文芸文庫から出ているドストのユーモア短編小説集『鰐』だ。

重厚で哲学的な悲劇性を想像してしまうドストエフスキーが、このように軽妙で洒脱なユーモア小説を書いていたことに、ある種の驚きを覚えつつ、4つの短編を心地よく読むことが出来た。

『九通の手紙からなる小説』は、最初のうち何を書いているのか分かりづらいが、最後のオチでストンといく。

『他人の妻とベッドの下の夫』は、ドリフの爆笑コントを見ているような、立体的な可笑しさがある。

『いまわしい話』は、部下の結婚披露パーティーに、飛び入りで闖入した高級官僚が、高尚な意図とは裏腹に、事態を雪だるま式にメチャメチャにしていく展開で、三谷幸喜ワールドを思わせる。

『鰐』の滑稽さは、まるで落語の世界だが、絢爛と散りばめられている風刺がすごい。

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2009/01/04

お供え餅と牛の前で、魚たちが舞う

新宿の地下街を歩いていて、見つけた正月の風物詩。

お供えもちや、牛のフィギュアの前で、魚たちの舞い踊り。これ、すべて水中の世界で、正月風に設えたアクアリウム(熱帯魚水槽)なのだ。

場所は、新宿駅から伊勢丹方面に通じる地下通路の途中、サブナードに降りる階段の両サイドにある。

動画にしてみたので、どうぞ。雑踏の音も収録されているので、多少の音が出ます。


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2009/01/01

2009年明けましておめでとうございます

090101_22009年明けましておめでとうございます。

今年の抱負というほどのものではないが、今年からはそろそろと牛の歩みのごとくに生きていきたいと思う。

つまりは牛歩。のろのろしているが、かといってまったく寝そべっているわけではなく、とにもかくにも歩いてはいるのである。

鈍牛というのも、これからの時代にはなかなか洒落たパラダイムとなるのではないか。

日本の社会も、日本の経済も、今年は牛歩から再出発しなければならないだろう。

そして、虚勢を張った猛進に復帰するのではなく、身の丈に合った分相応の行きかたを取るべきだろう。

個々人も、身の丈に合った生き方で十分だ。

牛を見習い、牛に学ぶ。

ゆっくり歩こうではないか。

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