ドストエフスキーの『地下室の手記』と『鰐』
ドストエフスキーの文庫本を2冊読んだ。
1冊目は、『地下室の手記』。僕は最初、この小説を光文社の古典新訳文庫で読もうと思って買ってきた(写真左)。
そして読み始めたとたんに、訳に違和感を覚えて、つまづいてしまった。
冒頭は、こんな調子で始まる。
俺は病んでいる‥‥。ねじけた根性の男だ。
そして終始、この調子で続いていく。
これはまあ、まだ俺が若かったころの話だ。しかしだな、俺がねじけた根性で意地を張ること関して、最大のポイントはどこにあるか、あんた方はそれを知っているかね?(安岡治子訳)
この一人称の「俺」という訳し方に、僕は首をかしげてしまう。
ロシア語の原文は、Я(ヤー)なのだろう。
これを「俺」と訳したら、読む者は最初から、日本語の「俺」が持つ特定のイメージに縛られてしまい、小説の内容そのものが歪んで伝わってしまうことにならないか。
「俺」という一人称で綴られた小説からは、どこか反抗的で意地っ張りで、ひがみ者、そして威張りくさってアウトローを気取る天邪鬼、等々の先入観がどうしても入り込んでしまう。
僕は、2、3ページ読んだだけで、この訳で読むのを止めて、別の訳者による新潮文庫版の『地下室の手記』を買ってきた(写真右)。
こちらの冒頭は、こうなっている。
ぼくは病んだ人間だ‥‥ぼくは意地の悪い人間だ。
そして先の箇所は、こう訳されている。
もっとも、これはぼくがまだ若いころの話である。ところで、諸君、ぼくの憎悪の最大のポイントはどこにあったか、ご存じだろうか?(江川卓訳)
「俺」と訳すのと、「ぼく」と訳すのでは、文章のトーンや雰囲気、いわば小説の世界がまるっきり別物になってしまうのだ。
この小説は、過剰な自意識に苦しめられながら、ますます自我の「地下室」に閉じこもって、自虐的・他虐的になっていく主人公の物語で、ドストの転換点となった作品とされている。
それだけに、「俺」では特殊な人格に帰しておしまいという話になりかねないが、すなおに「ぼく」と訳すことでこそ、誰もが思い当たる自意識の問題として普遍性を帯びてきて、現代にも通ずるテーマとして成立するのではないか、という気がする。
海外の文学作品、とくにドストのように人物と社会的背景が不可分の小説では、どの訳で読むかが非常に重要な問題だと思う。
【1月21日追記】
さらに別の訳者による『地下室の手記』を入手出来た。現在は絶版になっている河出書房新社のドストエフスキー全集の第5巻で、こちらは一人称の訳し方が「俺」でも「ぼく」でもなく、「わたし」になっている。これまた、ずいぶん印象が違うものだ。
冒頭の部分はこうだ。
わたしは病的な人間だ‥‥わたしは意地悪な人間だ。
また上記で引用した箇所は、次のようになっている。
ただし、これはまだわたしの若かった頃の話である。しかし、諸君、わたしの天邪鬼(あまのじゃく)のおもなる点がどんなところにあったか、諸君に想像がつくだろうか?(米川正夫訳)
追記箇所はここまで-----------
もう一冊は、講談社文芸文庫から出ているドストのユーモア短編小説集『鰐』だ。
重厚で哲学的な悲劇性を想像してしまうドストエフスキーが、このように軽妙で洒脱なユーモア小説を書いていたことに、ある種の驚きを覚えつつ、4つの短編を心地よく読むことが出来た。
『九通の手紙からなる小説』は、最初のうち何を書いているのか分かりづらいが、最後のオチでストンといく。
『他人の妻とベッドの下の夫』は、ドリフの爆笑コントを見ているような、立体的な可笑しさがある。
『いまわしい話』は、部下の結婚披露パーティーに、飛び入りで闖入した高級官僚が、高尚な意図とは裏腹に、事態を雪だるま式にメチャメチャにしていく展開で、三谷幸喜ワールドを思わせる。
『鰐』の滑稽さは、まるで落語の世界だが、絢爛と散りばめられている風刺がすごい。
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