幻の作家・尾崎翠に取り憑かれて
僕は近代の日本文学をほとんど読んだことがない。とりわけ、自然主義といわれる私小説のたぐいは、まるっきり苦手で、パラパラとページをめくっただけで、もうついていけないのだ。
そんな僕が、尾崎翠(おさきみどり)に取り憑かれてしまった。
きっかけは、まさに偶然である。半月ほど前、4月7日の日経新聞夕刊文化面に、『先駆的「幻の作家」 尾崎翠を再評価 東京のシンポでも賛辞相次ぐ』という大きな記事が載った。
尾崎翠は、1920年から1930年のつかの間、幻のように文壇に登場して消えて行き、1971年に他界した。
この作家の再評価が始まったのは1998年からで、2001年からは出身地の鳥取で毎年、「尾崎翠フォーラム」が開かれているというのだ。
記事を読んで、なんとなく僕の感覚に触れるところがあるような気がして、近年に刊行された文庫本を買ってきて読んでみた。
ちくま文庫の「尾崎翠集成」上下2巻と、ちくま日本文学の「尾崎翠」の3冊である。
代表作の『第七官界彷徨』は「だいななかんかいほうこう」と読み(注1)、まことに奇妙なタイトルで、「人間の第七官にひびくような詩をかいてやりましょう」と考える小野町子という主人公が、二人の兄、そして従兄とで、風変わりな世界を繰り広げていく。
この小説は、これまでのどの日本文学とも全く異なる響きを持っていて、読みながら僕はブッ飛びそうなくらいの不思議な感覚にとらわれた。
ほかの『歩行』『地下室アントンの一夜』『こほろぎ嬢』『アップルパイの午後』などもそうだが、尾崎翠ワールドには読む者をとりこにしてしまう魅力というか魔力があって、まさに尾崎翠の小説そのものが、人間の第七官にひびくのだという気がする。
読み進むにつれて、もっと尾崎翠について知りたいという思いは増していって、僕は『尾崎翠 第七官界彷徨の世界』(水田宗子)、『金子みすゞと尾崎翠』(寺田操)、『都市文学と少女たち 尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(寺田操)などの研究書・考察書をネットで買い求め、また映画化された『尾崎翠を探して 第七官界彷徨』のビデオも入手した。
資料を読んで初めて知ったことだが、尾崎翠と宮沢賢治は同じ1896年の生まれであり、その7年後の1903年には金子みすゞが生まれ、その4年後の1907年には中原中也が生まれている。
これらの作家、詩人たちはお互いに面識はなかったかも知れないが、1920年から1930年という同じ時代の空気を呼吸しながら、それぞれの道を孤立無援で模索していたのだ。
日本が日中戦争に突き進む前の、かりそめの安らぎと明るさの時代に、先駆的・前衛的な境地に挑み続けた若き芸術家たちがいたということに、深い感銘を覚える。
<注1>『第七官界彷徨』の読みは、浜野佐知監督作品の映画版の中では一貫して「だいななかんかいほうこう」と発音されているが、この作品について触れたネットの記事の中には、わざわざ「だいしちかんかいほうこう」と振り仮名をつけているものもある。
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