89年ぶり公開、久米民十郎『支那の踊り』の衝撃
この絵の前に立った時、時空を超えて蘇った魔力のようなパワーによって、ぐいぐいと絵の中に引きずり込まれていく感覚に襲われた。
日本のモダニズムの先駆者といわれる洋画家、久米民十郎(1893年-1923年)の最高傑作で、長い間行方が分からなくなっていた『支那の踊り』である。
2年前に東京・文京区の永青文庫で、改修工事のため倉庫の整理をしていて、古い毛布に包まれたこの絵が見つかり、今年1月に大正絵画史の専門家に見てもらったところ、大正9年(1920年)に帝国ホテルで開かれた久米民十郎の個展に出品されて以降、存在が知られることのなかった『支那の踊り』に間違いないことが分かった、という。
この絵は、今年3月末から永青文庫で開かれている「近代絵画、セザンヌから梅原、安井まで」と題する企画展(6月21日まで)において、実に89年ぶりに公開されている。
久米民十郎は、ロンドン留学中に詩人イエイツやエズラ・パウンドと出合い、日本の能を紹介して彼らの創作に影響を与えたとされている。
『支那の踊り』は、実に不思議な雰囲気を漂わせながら、見る者の心を、感覚を、感性を衝撃的なまでに揺さぶり続ける。
絵に引き込まれているうちに僕は、ちょうど前回と前々回のブログで書いた尾崎翠の『第七官界彷徨』を読んでいる時に感じたものと共通の感覚にとらわれた。
この絵は、尾崎翠の世界と同じワールドなのではないか。それはまさに、人間の第七官にひびく絵であり、尾崎翠が文学で目指したものを、久米民十郎は絵画で追求したのではなかろうか、という気がする。
久米も尾崎も、大正から昭和初期に続くほぼ同時代に、モダニズムの空気をたっぷりと吸いながら、当時の主流であった自然主義に背を向けて、シュールで幻想的な世界を創出していった。
久米民十郎はイギリスから一時帰国をしていた横浜で関東大震災に遭って、30歳の若さで夭折した。尾崎は、36歳の若さで長兄によって東京から鳥取に連れ戻され、その後は創作活動を断って75歳で死去した。
時代の先駆者でありながら、自然災害や家庭内の事情によって、創作活動の遮断を余儀なくされた2人の無念を思う。
久米民十郎の『支那の踊り』が公開展示されている永青文庫は、JR目白駅からバスで6つめで降りて徒歩5分ほどのところにあり、ひっそりとした緑の中にタイムスリップしたかのように佇むレトロモダンな館だ。
今回の企画展の梅原龍三郎や安井曽太郎の絵も見ごたえがあるのだが、久米民十郎の『支那の踊り』1点だけを見るためにも、ぜひ足を運ぶことをお勧めしたい。
僕は、600円の入場券の代わりに、期間中は何度でも入館出来るパスパートを1000円で購入した。
まだ1カ月以上の期間があるので、散歩がてら何度か訪れてみようと思っている。
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