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2009/09/29

デルヴォーの幻想的エロスに陶然となりき

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けふは渋谷のBunkamuraにて開催したる「ベルギー幻想美術館」を観に行きぬ。

余の目的は、ポール・デルヴォーの一連の絵画、なかんずく、大作の『海は近い』(写真)なり。

この絵は、今回の美術展の目玉なる傑作にて、この一点のみとても観る価値ありき。

海に近き夜の市街。かなたに月光かがやき、街灯が不思議の街を淡く照らす中、七人のをみなたちの全裸、半裸、着衣それぞれなるが、永遠に止まりし時間の中で佇み居れり。

まず目に入るは、美しきをみなの足のみを覆ひたるが、ベッドに横たわれる妖しき肢体なり。

このをみなの、恥じらひがちにして恍惚のさま、いかでかならむやと、余はあまたの妄想かきたてらるるを禁じ得ず。

絵の中央にて、全裸なるをみなの斜め正面を向きしが、電柱と街灯との間に立ちてやや俯きぬは、エロス際立ちて、このをみなは生乙女にて違ひあるまじと直観せり。

会場の解説によらば、デルヴォーの、かように官能的かつ扇情的なるをみなたちを描き続けたるは、母親が彼に云ひし言葉の「をみなは心を惑はす悪魔にて、をのこを破滅させるべし」によりける影響大なりしとぞ。

デルヴォーは、をみなへの憧れと恐れとのはざまから、現実にはけしてあり得べからざる光景に理想のをみなたちを創出しけむにや。

をみなたちが、清らかなるさまに描かるれば描かるるほどに、無防備なる乳房やヘアは、匂ふばかりの官能にて観る者を挑発して止まず。

余はをのこなれば、かくなる刺激を受けて喚起さるるも理ありと覚ゆるなるが、をんなの観客にありてはいからんや。

デルヴォーの絵に接して余はかく悟りぬ。清楚と淫靡、清純と淫乱、淑女性と娼婦性。一見相反するがごとくに見ゆるこれらの概念こそ、をみなにありては、紙一重もしくは等しきことの別なる云ひ方なれ。

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2009/09/27

轟音震わす鉄砲組百人隊、隊員にをみなも

0909271sけふは、大久保なる皆中稲荷神社の例大祭にて、二年に一度の鉄砲組百人隊行列繰り広げられけり。

余が鉄砲組百人隊行列を見しは、直近では六年前のことなりき。四年前は、いかでか観る機会を逸し、二年前はやうやう最後の場面にのみ間に合いたるが、試射はほとんど見る能はざりけり。

けふは久々に鉄砲隊の試射を間近に見むとて、最初の試射地点にてつとに行列の到着を待ちうけたり。

大久保の街も近年は変貌著しかりけるが、鉄砲組百人隊の行進を見つれば、悠久の歳月の江戸時代から変わることなく流るるを知りぬべし。

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鉄砲隊の試射は、三回に渡りてメンバーを変へ、姿勢を異にして行なへり。

空砲とは云へ、火縄銃にて本物の火薬に点火し、一斉に轟音をとどろかせて揃い撃ちして一帯が白煙に包まるるさまこそ、豪快にして壮観なれ。

天を震わせ地を揺るがすごとき大音響、秋の都心に轟き渡りて残響を残し、つくづくと平和なる世のありがたきを感じ入れり。

余は、鉄砲隊はおのこばかりなるものと思いきや、よく見なば、をんなの隊員混ざり居り。これまでも、をんなの加わりしことありけむやいなや、仔細不明なり。

見物人からも、「あな、鉄砲隊におみなが居るぞよ」との声聞かれぬ。

これも男女平等の世のしるしならむや。

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2009/09/19

ささやかなる神輿に出遭ふもまたよし

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この週末からは、初めての秋の大型連休なりとぞ。

祝日法によりて、敬老の日と秋分の日とに挟まれたる二十二日が国民の休日となりて、二十日からの四連休になり、けふの土曜日が休みの者は五連休となるべし。

余は近年、毎年毎年が三百六十五連休なれば、四連休とて五連休とて、ことぞともなく、おしなみにて過ごし居り。

けふは、たまさか新宿駅の東口を通りかかりし折、祭りの神輿の出発するさまに出遭ひけり。

新宿十二社なる熊野神社の宵宮なりとて、東口商店会「角一南部」の氏子らによる神輿たるらし。

旅姿の、麗しきをんな二人が先頭を歩みたるは、熊野詣での姿を模したるにや。

神輿の担ぎ手たちの、さほどの大人数にもあらぬが、掛け声もにぎにぎしく、焼き鳥など臨時の露天居並ぶ裏通りを練り歩くさま、いとあじはひあり。

大祭の神輿渡御は明日二十日にて、新宿西口東口あたりはなべて、たいぜいの人々で賑はふらん。

大人数にて曳きたる神輿渡御よりも、けふのごとき、ささやかなる神輿の、期せずして街中にて出遭ひたるこそ、ふぜいありておもしろけれ。

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2009/09/11

ゴーギャンの大作『我らいずこより来るや‥』を鑑賞しき

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けふは国立近代美術館に行きて、ゴーギャン展を鑑賞したり。

余は、ゴーギャンにはさほど関心はなかりしかど、ただ一つ、『我らいずこより来るや、我ら何者なるや、我らいずこに行くや』てふ長きタイトルの大作の、本邦初公開なりけるを一目見ばやとぞ思ひける。

この大作のタイトルは、余が二〇〇四年に出版したる『人間なしで始まった地球カレンダー』の、まへがき冒頭にて引用せしに加へ、二〇〇八年に出版したる『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』の冒頭にても仏語と和文にて掲載しけるものなり。

余は、このタイトルが持てる哲学的かつ深遠なる響きにいみじう魅せられたりけるが、そのつけられし絵画を見でいかでタイトルのみを語る能はざるや。

会場は平日なれど会期末が迫りたることもありて、あまたの入場客にて混雑しけり。

作品は余が想像せしよりはるかに大きなる壁画なれば、いかにして日本の会場まで運びけむ、と驚き禁じ得ず。

絵の雰囲気、静謐にして緊迫感と安堵感が混じり合ひ、ゴーギャンの文明批判の極地にあらんとぞ見ゆる。

旧約聖書なる禁断の果実のモティーフ描かるるとともに、青き色にてひときは目立つ偶像は仏教的なるを思はしむ。

描かれし人物は十三人ほどなるが、偶像も含めてなべてをんなばかりのやうに余には感ぜらるなり。をんなこそが世界の根源なるにや。

赤ん坊も裸のをんなも着衣のをんなも、どの人物もさほど楽しげなるはなかりて、生くることの哀しきを思ひて神妙なるやうにも覚ゆ。

こは観る人によりて、いかようにも解釈され得べきにして、解決能はざる人間存在の不可思議を、永遠に問ひつづけて止まざる絵にこそあらめ。

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