ゴーギャンの大作『我らいずこより来るや‥』を鑑賞しき
けふは国立近代美術館に行きて、ゴーギャン展を鑑賞したり。
余は、ゴーギャンにはさほど関心はなかりしかど、ただ一つ、『我らいずこより来るや、我ら何者なるや、我らいずこに行くや』てふ長きタイトルの大作の、本邦初公開なりけるを一目見ばやとぞ思ひける。
この大作のタイトルは、余が二〇〇四年に出版したる『人間なしで始まった地球カレンダー』の、まへがき冒頭にて引用せしに加へ、二〇〇八年に出版したる『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』の冒頭にても仏語と和文にて掲載しけるものなり。
余は、このタイトルが持てる哲学的かつ深遠なる響きにいみじう魅せられたりけるが、そのつけられし絵画を見でいかでタイトルのみを語る能はざるや。
会場は平日なれど会期末が迫りたることもありて、あまたの入場客にて混雑しけり。
作品は余が想像せしよりはるかに大きなる壁画なれば、いかにして日本の会場まで運びけむ、と驚き禁じ得ず。
絵の雰囲気、静謐にして緊迫感と安堵感が混じり合ひ、ゴーギャンの文明批判の極地にあらんとぞ見ゆる。
旧約聖書なる禁断の果実のモティーフ描かるるとともに、青き色にてひときは目立つ偶像は仏教的なるを思はしむ。
描かれし人物は十三人ほどなるが、偶像も含めてなべてをんなばかりのやうに余には感ぜらるなり。をんなこそが世界の根源なるにや。
赤ん坊も裸のをんなも着衣のをんなも、どの人物もさほど楽しげなるはなかりて、生くることの哀しきを思ひて神妙なるやうにも覚ゆ。
こは観る人によりて、いかようにも解釈され得べきにして、解決能はざる人間存在の不可思議を、永遠に問ひつづけて止まざる絵にこそあらめ。
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