あまりに急ぎたるによりて、時間の止まれる男
伊勢丹本店の角より、いみじう早足のさまにて、わき目もくるることなく、先を急げるビジネスマンあり。
そは、疾走とも云へるほどにて、目一杯の大股にて、ネクタイは宙を舞ひ、背広の裾だに風に靡くぞ、いとすさまじき。
いかで、かくも急ぎたるにや。アポの時刻に遅れむとするにや。
通行人らみな、振り返りざまに見遣るに、いでいで、この男、微動だにせぬこそ、怪しきことの限りなけれ。
「こはマネキンなりや」「生きたる人間ぞ」など、ささめき合へたり。
しばし見ゆるに、こは時の止まれるを細密に具現せるパフォーマンスとぞ、覚ゆる。
男の前に、帽子の転がれるありて、投げ銭入れ行く人あり。
投げ銭にのみ、この男、反応したりて、疾走の姿なむ崩すことなく、軽く会釈するも、をかしき。
宙に舞ふネクタイも、上着の裾の靡けるも、こは糊なんどにて固めたるものらし。
時よ止まれ、汝は美しき。
ファウストの悪魔と契約したりける言葉のままに、時の止まりなば、人はみな、かかる姿のまま、フリーズするにや。
時の止まりたる世界もまた、悪しくはなからまし。
己の意のままに、時の再開せむとするものならましかば。
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