1本の葱贖いて、ふとグルーシェンカのこと思ひ出せり
けふは、珍しく葱なむ1本贖い来たる。何に使ふといふ当てもなし。
じっと葱を見るに、ふと初音ミクのネギ、思ひ浮かび、そこで妄想は一転して、『カラマーゾフの兄弟』における1本の葱の挿話へと飛ぶ。
こは、小説中に重層的に散りばめられたるあまたの挿話の中に、ひときは強き印象を与ふるくだりなり。
話は、ゾシマ長老の死の直後、アリョーシャが友人ラキーチンに誘はれて、グルーシェンカのもとを訪れた時に、彼女がアリョーシャに語り出せる。
「われ、ラキートカには、葱与へしことありなどと威張りてみせたれど、なれには自慢せず。なれには、ほかなる目的にて語るなり。こは、ほんの寓話なるも、いみじうよき寓話なるは。われ童のころ、いま家にて料理女ぞしたるマトリョーナより聞きし。
いさ、かやうなる話なり。
『昔のことなり。一人の心ざま悪しき女ありて、死にけるとぞ。死してのち、一つの善行だに残らざれば、悪魔たち、その女つかまへて、火の池に放りこみけり。その女の守護天使、つと立ちて、何ぞ神様に報告能ふべき善行なしやと考ヘるうち、やうやう思ひ出したりて、神様にきこえまつりけるやう。かの女、野菜畑にて葱を1本抜き、乞食女に与へしことありき、と。ほどに、神様、かく答へたまへり。ならば、その葱取り来たりて、火の池なる女に差しのばせやるべし。そにつかまらせ、引き張りてみむ。もし池より女、引き出せたりければ、天国に入れてやるべし、もし葱のちぎれたれば、女、いま居る場所にそのまま留まらせるべし、と。天使、女のもとに走りて、葱を差し伸べてやりぬ。いさ、女よ、こにつかまりて、抜け出るがよし。さて天使、ゆるゆると引き張り始めたり。しかるに、ほとど引き上げむとするきはに、池に居たるほかの罪人ども、女の引き上げられゆくを見て、ともに引き出してもらはむとて、みな女にしがみつきけるとぞ。されど、その女、心ざま悪しければ、足にて蹴落としにかかれり。「われこそ、引き上げられむとするなれ。わぬしどもにはあらず。こは、われの葱なるは。わぬしのにあらずよ」 女、かく云ひ放ちたる途端、葱、ふつと千切れたりけり。かくして女、火の池に落ち、いまだに燃へ続くる。天使、泣き出して立ち去りぬるとぞ』
かくは、その寓話なり。アリョーシャ、われは、そらにて覚へおり。なんとなれば、われ自らが、心ざま悪しきその女なるぞかし。ラキートカには、葱を与へしことありきと、威張りてみせたれど、なれにはことなる言い方せむ。われ、一生を通じて、あとにもさきにも、そのあたりの葱与へたるのみなり。われの善行ぞ、ただそれだけなるは」
物語はこのあと、草庵に戻りたるアリョーシャ、神父の朗読するガリラヤのカナの話聞くうちに、夢うつつの状態にて、やがてゾシマ長老の声ぞ聞ける。
『新たなる葡萄酒を、新たにして偉大なる喜びの酒を飲まむ。いでや、かくなるあまたの客は。いさ、新郎新婦も居れり。そは賢き料理頭なり。新しき葡萄酒なむ味見せむとすなる。なでか、われを見て驚きぬるや。われは葱を与えたりけり。かくてここに居るなるは。ここに居るおほかたの者は、はつか1本の葱を与へたるに過ぎざりけり。はつかに1本ずつ、小さき葱なるを‥。われらの仕事はいかならむ? なれも、もの静かなるおとなしきわが坊も、けふ、渇望せる女に葱を与ふこと能ひたりけり』
『カラ兄』の中にて、1本の葱の持つ思想的意味は、予想以上に大きなるもの、あらざらんや。
われもまた、一生におきて、ちさき葱なりとも与えしことありや、と自問したりけり。
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