梅一輪一輪ほどのあたたかさ
去年の暮れ、スーパー店頭の花屋にて、ふと思ひ立ちて、梅の鉢植をひとつ贖ひたり。
樹木の鉢植を贖ひたるは、初めてのことなるは。
鉢には、紅梅の札あるも、なべて固き蕾のままにて、いつ咲くにや見当もつかず。
さるを、昨日の寒の入りを境に、一輪また一輪と紅き花の咲き始めたる、いみじうをかし。
梅一輪一輪ほどのあたたかさ。芭蕉の弟子服部嵐雪の句なり。
この句は、梅の花の一輪また一輪と咲くに連れ、暖かくなりて春の訪れ来たる様を読みたる、と解釈さるること少なからずも、はたして、さなりや。
余は、否と思ふ。
この句は、春には遠き厳寒のころ、さしづめ、いまころの時期の句なるべし。
「一輪一輪」と続くるもよけれど、最初の「梅一輪」でいったん区切り、あらためて「一輪ほどのあたたかさ」と読むのが趣あらむ。
春を待ちわびる気持ちとは裏腹に、凍てつく寒風の吹きすさぶ中、梅が一輪咲ける。
人は全身全霊にて、そに一輪ほどのあたたかさぞ見たる。
一輪は一厘に通じ、ほんの僅かのあたたかさなれど、そはやがて訪れる春への確かなる予兆なるぞかし。
寒さの最も厳しき時期、一輪の梅が発散するあたたかさに、人は期待を膨らまさずにおられるものかは。
その落差の大きさこそ、この句の命であり、春への希望膨らむ動的なる句として、あまたの人に愛吟さるるゆえんと覚ゆれ。
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