節分から節分までの1年、いみじう短き訳は
余がここ十数年といふもの、年ごとに漠然と感じたるは、節分から節分までの1年の、ひたぶるに短うて、こはなんぞの訳によるにや、と怪しき心地のする。
この短きこと、節分から翌年の節分にのみ当てはまりて、たとへば元旦から元旦までや、七夕から七夕までなんど、ほかのもろもろの節目の間隔は、常の1年の長さと異ならず。
毎年、節分の近づくころになると、いでいで、はや節分の時期なるか、こはひたぶるに短きかな、と驚けること、しきりなり。
余は、この理由につきて、長年、考察したりけるに、やうやう一つの結論に達したるぞ。
その訳てふは、鬼たちが、人間の時間なむ密かに奪ひ取り続けたるに因れる。
鬼たちはもともと、人間の空想による産物にして、己らの時間を持たざる存在なり。
さるを、いつのころからか、鬼仲間の間にて、時間てふものは妙味あるものにして、なかなかに面白きものなりてふ噂の広まりつ。
時間あらば、その間なりとも実在のものとして、楽しみ愉悦に浸ること叶ふべしとて、鬼たちは人間の時間を奪ふことに夢中になりたりけり。
来年のこと云ふ人間からは、とりわけ時間奪ひ易しとて、鬼はにんまりと笑ひてぞ近づける。
人間から奪ひ取りたる時間を使ひて、鬼たちの為すことは、ほとど酒盛りなるは。
あまたの時間、取りたれば、鬼たちの数どんどん増しゆきて、呑めや歌へのどんちゃんさわぎは、昼夜を分かたず。
かくて、節分から節分までの1年の大半、鬼たちに取られるによりて、短くなりにけり。
けふの夜は、鬼たちの酒盛り、クライマックスとなれるとや。
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