子規が「藤の花房みじかければ」に込めたる意味
高校の時に習ひたる近代短歌の中で、余がひたぶるにいみじと思ひたりけるは、子規が藤の花を詠みたる歌なるは。
瓶にさす 藤の花房みじかければ 畳のうへにとどかざりけり
国語の教師曰く、この歌は、「畳のうへにとどかざりけり」と詠むことにより、畳のうへにあと少しで届くほどに藤の花房の長きことを描写したる、と。
「みじかければ」と詠みつつも、瓶から撓りて垂れ下がりたる長き花房を想起させしむとは、いかなる非凡の歌詠みなるや、と余は少年ながらに感心したるものなり。
この歌について、けふ村田邦夫著の近代短歌要解てふ古き解説書見るに、まったき異なる角度からの視点ぞ綴られたる。
子規は、重症の肺病にて、仰向けに伏したる位置より、机上の藤の花を見上げおれり。
「畳のうへ」とは、子規の頭の位置にして、子規自身の位置にほかならずと。
「とどかざりけり」は、活けられたばかりの藤の花の若さに対する、子規からの遠さを示したりて、そのへただりなむ、一種の焦燥感を子規に感じさせたるらむ、と。
著者はこの歌を、子規の「忠実簡潔なる描写のなかに人生の真実相を直視せむとする態度」の具象化されたりける、と評す。
かかる視点より読めば、単なる写生を超へる壮絶なる歌にほかならず、とこそ覚ゆれ。
たまたま街ありけば、花屋の店頭に鉢植並ぶ中、藤の鉢植、一鉢のみあり。
花房は一房なるも、600円と手ごろなれば、贖ひてきたり。
瓶ならぬ 一房の藤 子規偲ぶ
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