『真珠の耳飾りの少女』の刻刻と変はる表情
東京都美術館に、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』を観に行けり。
けふは本来は休館の月曜日なれど、臨時開館と聞き、さしづめ余裕にて観らるべしと行くに、この絵の前は300人を越すかといふ人だかりにて、つづら折りのロープになむ列なして、遅遅たる速度で前に進める。
やうやう絵の前に来ても、立ち止まらずに進みながら鑑賞されたし、との係員たちの声に急かされて、ゆたりと観ることの能はず。
されど、穴場の無きにしもあらずで、ロープの外側の絵に最も近き位置から、ロープ越しに身を乗り出すやうに観れば、真正面にはあらねど、はつかに右寄りの角度ながら、心ゆくまで鑑賞することを得たり。
余はこの位置を確保して動くことなく、1時間余りの間、絵を見つめ続けたり。
この少女は、いまだにモデルも判明せず、描かれたる経緯も定かならずとぞ。
最初の印象は、少女のまなざしの無垢と純真さなり。
軽く開きかけた唇は、「なにゆへに、かく吾を観るぞ」とでも言ひたげかと。
見つめるうちに、ふと少女の微笑むやうなる表情の浮かぶを感ず。
さらに見続くるに、あまたの観客に観られ続くることに、少女はある種の安堵感と満足感を覚へたるにや、とも思ふ。
最初は、何かに驚けるかと思はれたる表情に、いつしか己の美しきこと、内心にて確信したるやうな、自信と誇らしさの、ちらとよぎるは幻か。
清純なる少女ぞ、時間をかけて眺むるうちに、絵には描かれざる官能と媚の、そこはかとなく秘められたることの見ゆる。
少女は、黒き瞳や青のターバンから推して、ヨーロッパ人にはあらずして、どこか東方的なる民族の血を引けるにや。
また質素なる黄色き服からして、決して裕福なる身分にはあらじとぞ。召使あるひは小間使ひのやうな立場にありたるにやと想像す。
ふと、少女の唇が動き、かすかなる言葉の発せらるるを聞きたる心地ぞしたる。
「永遠とは、悲しきものなりと思ふことあり。吾の命の、けして終はらざること、定めにしあれど」
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