2015/06/12

トライアングル、その珠玉の一打ち

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楽器使ひの天才と呼ばるる作曲家はあまた居れど、とどめはワーグナーにこそあらめ。

余がとりわけ感嘆するは、ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲の後半、約7分前後の辺、展開部から再現部に移る瞬間なる「愛の動機」の頭に、トライアングルの涼やかなる一打ちの入るところなり。

このちさき音色は、展開部の「哄笑の動機」なんどで極みに高まれる緊迫を一瞬にして転換・解放し、聴衆に馥郁たる幸福感と愉悦をもたらすもので、祝祭気分の総仕上げに計り知れぬ効果を持つものなり。

トライアングルの一打ちの、かくも魔術的なる場面を余はほかに知らず。

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2012/07/26

VHSビデオをデジタル化してBDに

120726a10日余り前にブルーレイレコーダーを贖ひてより、余にとりての課題は、1989年ころから15年余りに渡りて録りためたる、366本のVHSビデオテープの音楽番組を、デジタル化してBDにて保存せむことなり。

ビデオデッキなんど他の機器からの取り込みに関し、ブルーレイレコーダーの取扱説明書には、外部入力にて内蔵ハードディスク(HDD)に取り込むこと可なりと、いとも素っ気無く触れられているのみで、あまた知りたきことがらの一切書かれておらず。

ビデオテープは、いかなる録画モードにて取り込むべきにや、ハードディスクに取り込み後はBDに高速デビングの可能なりや、BD1枚にVHSテープ何本分の収録が出来るにや、何も分からぬままなり。

録画モードの一覧見るに、HDDに録画可能なるは、BSデジタル、地デジ、および1.5倍録から15倍録まで22段階なるハイビジョン画質のみ、とされたり。

DVD画質のXP、SP、LP、EPは、いずれも「本機のHDDに録画すること能はず」とぞ。

ならば、VHSビデオのアナログ映像も録画不可かと、一瞬だじろぎぬ。

さるにてもあらねば、試しにビデオテープなむ1本、外部入力にて録画ボタンを押してみたる。

あなや、不思議のことかな、録画モードを選択すべき画面の現れぬまま、録画のさくさくと進みたる様なるは。

2時間後に録画終はりて、HDDの中身見れば、いでいで、アナログのビデオ映像なるに、「ハイビジョン画質の5倍録」にて、完璧に録画されたり。

2本目、3本目とビデオテープを録画してゆくに、いづれも自動的にハイビジョン画質の5倍録にて録画されたるぞかし。

アナログ映像なるにハイビジョン画質とは、これいかに。

当然のことながら、元テープの画質よりも良くなるはずのなければ、デジタル化されたるてふ意味にて、ハイビジョン画質と云ふならむ、と余は解釈す。

HDDへの録画の、ある程度溜まりたるところで、そをまとめてBD-Rにダビングす。

25ギガのBD-Rの残り容量を見ながらダビング設定してゆくに、テープ6本か7本分のデータぞ、1枚のBDに入ることを知る。

高速ダビングの可能なりて、ほぼ20分ほどにて完了す。

これまでに、テープ13本分を2枚のBDに収めたるところぞ。スペースを取るテープに比ぶれば、BDの薄さと体積は100分の1以下になりて、メディアの進化にぞ舌を巻ける。

さるにても、VHSテープのBD化は、あまたのユーザーの知りたきところならむに、いかで取扱説明書にて詳しき説明をせざるや。

余の推察するに、デジタル番組のダビングが著作権保護の観点から厳しく制限されたると同じく、かつて録画されたるアナログ番組も一旦デジタル化されなば画質の劣化することなく、無制限にダビング可能なるが故に、取扱説明書にて説明することを、わざと避けたるならむ。

さて、余はこのペースにてテープのBD化進めむとするに、HDDへの録画は実時間を要したれば、1日に4本程度が無理なきペースかとぞ。

366本すべてのBD化には91日かかりて、BD-Rにして60枚程度に収まる計算なるは。

BD化を終へたるテープの、次々に廃棄せむことは、言ふもさらなり。

記録メディアの高容量化と省スペースは、時代の流れとこそ。

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2012/04/27

23年かけ完成、クラシック演奏映像コレクション

1204272余は1989年(平成元年)ころから、すずろにテレビのクラシック演奏番組を録画したりて、聴きたき時に、ゆるりと楽しむやうになりけり。

はじめのころはVHSビデオに、途中よりはDVDにぞ録画したる。

VHSビデオはラベルにテキストデータ書き、DVDは演奏やステージのシーンをキャプチャーして文字データとともにジャケット作成したりけり。

やうやう数の増しゆきて、いづちのテープ、ディスクにいかなる曲の保存したるや、全体を把握することの難くなりゆけば、余はなべて番号シールを貼り付け、エクセルに作曲家、曲名、演奏者、指揮者なんど書き込みゆくことにしたり。

かくして、特に意識したるにはあらねど、クラシック演奏映像のコレクションとデータベース、時を経るにつれて着着と整備拡充されつるは。

120427いつ果てぬとも知れぬ録画と整理作業なれど、さてもあらねば、とりあへず、これまで録りためたる分にて、いちおう完成とみなし、現時点でエクセルのデータベースなむプリントしてみたる。

収録したる曲の数、延べにして2660曲。このうちVHSテープは366本、DVDが247枚なり。

この一覧見れば、余の嗜好の一目瞭然なりて、我ながら驚けること少なからず。

同じ曲にして、異なる演奏者によるもの、あまたありて、演奏種類の10以上ある曲なむ、書き出せば次のごとくなりぬる。

14種類 ベートーベン 交響曲第7番

13種類 ストラビンスキー 舞踏音楽「火の鳥」

13種類 ワーグナー ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲

12種類 ベルリオーズ 幻想交響曲

12種類 ベートーベン 交響曲第3番「英雄」

12種類 ベートーベン 交響曲第5番「運命」

11種類 ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲

11種類 チャイコフスキー バイオリン協奏曲

11種類 グリンカ 歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲

10種類 ストラビンスキー 舞踏音楽「春の祭典」

10種類 ストラビンスキー 舞踏音楽「ペトルーシュカ」

10種類 シューベルト 交響曲第7番「未完成」

10種類 ラヴェル ボレロ

全体を通して曲数の最も多き作曲家は、ベートーベンとモーツァルトなりて、それぞれ延べ240曲にぞ上れる。

ついでシューベルトとチャイコフスキーの、それぞれ142曲ずつなり。

名高き作曲家にして少なきは、マーラーの延べ5曲、ブルックナーの延べ9曲なんどで、こは余の好き嫌いの反映にこそ。

収録したしと思い続けたる曲の、この23年間に一度も放送されず、もしくは録画の機会逸したるかで、コレクションに欠けたるは、グローフェの組曲「大峡谷(グランド・キャニオン)」と、ドリーブのバレエ音楽「コッペリア」の二つなり。

どちらも、余が中学生のころに、ラジオよりよく流れたる記憶あるに、いかでテレビの演目に乗らざるや。

今後この2曲、放映されて収録されなば、余のクラシック・コレクション、心底より完成と云うこと能ふるものを。

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2010/11/17

ヘッドホン装着せではブラームス聴けず

101117a『キューポラのある街』を初めて観しは、40年以上も昔のことなるが、オンボロだちたる京大西部講堂にて開催されし上映会なりけり。

その時の進行役なむ、のちに赤軍派議長となりたる塩見孝也にて、映画の題名を誤りて『キューポラの街』と、なでか慌て口調にてアナウンスしたりけるが、記憶に残れる。

さはともかく、『キューポラのある街』には、すこぶる印象的なるシーンの、いみじうあまたあり。

牛乳瓶の窃盗、鳩を飼ふこと、母の出産、父との諍ひ、修学旅行の断念、朝鮮人一家の帰国、労働組合、パチンコ店でのアルバイト、等等。

なかにても、余の最も心に残れるシーンぞ、吉永小百合のジュンの、友達の家にて、たはぶれに、生まれて初めて口紅を塗りてもらふところなる。

このときなむ、ブラームスの交響曲第4番の最初の部分の、静かに切々と流れ来たれるは。

汚濁せる大人社会への嫌悪。にも関はらず、否応なしに少女から大人に脱皮していかねばならぬ青春の苛酷。

ブラ4は、ジュンの内面の葛藤と哀しさを余すところなく伝へて、映画とクラシック音楽の最も優れたる融合なりとぞ覚ゆる。

ここからが本論に入るなるが、テレビの音楽番組の録画しけるをデッキにて再生せむとするに、ブラームスの交響曲はなべてバイオリンの旋律、ひたぶるに超高音域に作られたりて、高音部はほとほと聴き取ること能はず。

音量を上ぐれば、からうじて聞き取るるものの、全体の音量のあまりに大きなるぞ、うたてげなる。

思案の末に余は、ワイヤレスヘッドホン使ひなば高音部も聴こゆべしと思ひ立ち、ネットのレビューなんど参考にして、オーディオテクニカのCL550ULを贖ひたり。

ヘッドホン装着して、ブラ4の聴きてみたれば、これまで余が聴きつるは何なりや、とあさましうなるほどに、別世界の音に聴こゆ。

高音部の鮮明なるは云ふもさらなり。音のダイナミックに広ごりて、厚みと深みのある響きは、これぞブラームスと快哉を叫ぶ心地なる。

げに、ヘッドホン装着せではブラームス聴けずなりたるぞかし。

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2010/09/09

ラヂヲの歌は楠トシエ歌ふ「サンマ・サンバ」とぞ

終戦から間もなき時代、NHKラヂヲからあまたたび流れたりて、余の記憶に残れるサンマの歌のこと、4日のブログにて綴りたるが、こは1953年、三木鶏郎(トリロー)の作詞作曲なる「サンマ・サンバ」とぞ判明したる。

歌の流れたる番組は、「日曜娯楽版」てふ番組の、1947年から1952年6月まで続きたりて鋭き社会風刺で話題集めたるがありけるに、そが後継番組とて1954年まで放送されける「ユーモア劇場」なる番組とぞ。

歌ひたるは、おもに楠トシエなるが、中村メイコの歌ふこともありけるらし。

YouTubeに、楠トシエ歌ふ曲のあるを見つけたれば、ここに貼りておきたし。

歌詞を全文掲載す。

サンマ・サンバ 作詞・作曲 三木トリロー

手なべさげても あなたとならば
狭いひと間の アパートぐらし
人目があったって サンマを焼けば
ちょうちょうなんなん けむの中
ベントのおかずも サンマ (アラ)あちらのうちでも サンマ
こちらのうちでも サンマ やすくておいしい サンマ サンマ
サンマったら サンマったら サンマったら サンマ

にくい目覚し ジリリとなれば
行かざなるまい おつとめぐらし
会社に遅れ 課長がよんでるが
スタコラサッサと けむにまく
ジワジワ焼けてく サンマ (アラ)男のやもめに サンマ
醤油をかけろよ サンマ 長くてでっかい サンマ サンマ
サンマったら サンマったら サンマったら サンマ

遊びたいのは 年頃なのよ
ダンスホールに スケート 映画
ハンサムボーイと ランデヴーも いいけれど
ちょいと パパ ママ むけったいのよ
プンプンにおうよ サンマ (アラ)ビタミンAなら サンマ
だんこんおろしで サンマ ほねまでくおうよ サンマ サンマ
サンマったら サンマったら サンマったら サンマ


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2009/04/10

何十年も分からなかったピアノの曲名が判明

僕が中学生の時、1年下のケイコさんという女生徒が、放課後に音楽室のピアノでよく弾いていた曲のメロディーが忘れられない。

あれは、何というタイトルの曲だったのだろうか。

その後、ラジオで何度かこの曲を耳にしたのだが、いつも曲名を聞き漏らしてしまい、僕はその後、何十年にも渡って、この曲名を捜し続けることになった。

小説や詩などは、おおよそのことが分かれば、誰の何と言う作品なのかは、ネットなどで調べることが出来る。

メロディーしか分からない場合には、検索してみようがない。

僕が何かの楽器を弾けたり、あるいは楽譜を書くことが出来れば、ネットに書き込むなどして、知っている人から教えてもらうことも可能かも知れない。

しかし、そうした才覚もないまま、僕にとってこの曲の名は、永遠に分からないのではないか、という気さえしてきた。

それが、ふっとしたはずみに、動画サイトをみていてたまたまクリックしたら、なんとまさに、あの曲だったのだ。

曲の名は、ドビュッシー作曲の「ゴリウォーグのケークウォーク」(Golliwogg's Cakewalk)。組曲「子どもの領分」の第6曲とある。

なあんだ、有名な曲じゃないか、という人も多いだろう。

しかし、古今東西、星の数ほどもあるピアノ曲の中から、さして音楽に精通しているわけでもない僕が、メロディーだけを頼りに曲名を探し出すことは、針の穴に駱駝を通すくらい難しいことなのである。

曲名が分かってみると、YouTubeにはたくさんの演奏がアップされていることも分かった。

その中の一つを、曲名判明を祝ってここに張り付けておきたい。

(僕は、ドビュッシーのピアノ曲というのは概して、水面に反射する光の揺れを運ぶ微風のように、淡くて、ほわーっとしていて、つかみどころのないものだと思っていただけに、このように陰影のはっきりした個性的な曲想がドビュッシーのものだったとは、驚きであった)

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2007/09/05

幻のフルトヴェングラー「第9」音源

Scan0031フルトヴェングラーによるベートーベンの「第9」といえば、伝説の名盤となっているのが、1951年7月29日のバイロイト祝祭管弦楽団による「実演版」(EMI版)で、これを上回る演奏は望めないと言われるほどの高い評価を得てきた。

ところが、この名盤は実は同じ日に行なわれたリハーサルの録音を大幅に取り込むなど入念な「化粧直し」を施した編集版だった可能性が濃厚で、実際に本番で演奏された未編集の音源は、半世紀以上もバイエルン放送のアーカイヴに眠っていた、と言う衝撃のニュースがこの夏、日本の音楽ファンの間をかけめぐった。

しかも、この正真正銘の生演奏版は日本のフルトヴェングラー・センターがバイエルン放送とライセンス契約を結んでCD化に成功し、センターの会員に限り期間を限定して販売に踏み切った、というからフルヴェンファンの心中は穏やかではない。

僕も長い間、EMI版に心酔してきたのだが、早速、入会費を払ってセンターのにわか会員になり、2600円でこのCDを入手した(写真)。

まずは、なにはともあれセンター版を聴いてみる。音質はEMI版よりかなり鮮明で、演奏の詳しい比較について僕は分からないながらも、全体として流れが自然な感じで、EMI版よりもフレッシュな緊迫感が凄い。

これこそが手の入っていない生のバイロイトなのだということに、十分な説得力を感じる演奏で、これが世に出たことの意義は計り知れないだろう。

センター版の登場で、これまでEMI版を絶賛してきた音楽評論家やファンの間では、とまどいとともにさまざまな意見が出され、今月号の「クラシックジャーナル」や「レコード芸術」では、「2つのバイロイト」をどう評価するかが最大の関心事となっている感すらある。

フルトヴェングラー・センターの見解に真っ向から異議をとなえる批評家もいて、実演はEMI版の方でセンター版こそがリハーサルなどを取り込んで編集したものではないか、という。

2ちゃんねるなどネットの掲示板でも、2つを聴き比べたファンの間で百家争鳴の意見や感想が書き込まれている。

没後50余年を経て、これだけの大論争を引き起こすフルトヴェングラーは、やはりたいしたものだと僕は妙なところで感心してしまう。

ちなみに、これで僕が持っているフルトヴェングラーの第9は4種類になった。

1942年3月 ベルリン・フィルハーモニーによる定期演奏会実況(いわゆるソ連版)
1943年12月 ストックホルム・フィルハーモニーによる演奏会実況
1951年7月 バイロイト祝祭管弦楽団(EMI版)
1951年7月 バイロイト祝祭管弦楽団(センター版)

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2006/09/01

「冬の旅」終曲に出てくるライヤーという楽器

そろそろ秋風に誘われて、一人旅に出たくなる時期になった。

旅といえば、古今東西を問わず、さすらいこそが、その真髄であろう。

高速交通機関に乗ってバス付きのホテルに泊まるような旅は、もはやさすらいと言えぬのかも知れない。

だが、そのような時代だからこそ、さすらいという死語になった言葉に、強く惹かれる気もする。

たまたま読んだ本の中に、シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」と「冬の旅」は、いずれもさすらいをテーマにしていて、その雰囲気は対照的だ、というようなことが書いてあった。

何を隠そう、僕は生まれたこのかた、この二つの歌曲集を最後まで通して聞いたことがない。

「冬の旅」と言えば、「菩提樹」しか知らないのだ。

僕のビデオ棚を探してみたら、ヘルマン・ブライがシューベルトの三大歌曲集全曲を歌ったものがあった。

1997年に録画したまま、いったんは聞き始めたこともあったが、なんとなく難解な気がして最初だけで聞くのをやめて、そのままになっていた。

今回、聞いてみたら、歌とピアノが一体となった圧倒的な迫力にしびれてしまい、水車小屋は2回、冬の旅は5回、繰り返して聞いた。

僕はなぜ、何十年もの間、この世界に入り込むことが出来なかったのだろうか。

おそらく、僕にとっては、水車小屋や冬の旅の良さが分かるためには、それ相当の人生を生きる必要があったのだろうと、自己弁解をしている。

冬の旅の中で、とりわけ心を打つのは、1曲目の「おやすみ」と最後の24曲目「つじ音楽師」だ。

‥‥凍てつく氷の上で、だれも耳を傾ける者がいないのに、ライヤーを回し続ける老いた音楽師。

‥‥お盆の中は、いつまでたってもからっぽだ。

‥‥不思議な老人よ、お前について行こうか。僕の歌に、ライヤーを合わせることが出来るだろうか。

この印象的な終曲は、人によってどのような解釈でも可能なようだ。

シューベルト自身と老人とが重なって見える一方では、この老人は人生や老いというものを象徴的に具現しているとも見れる。

このライヤーとは何だろうか、と気になって、ネットで調べてみた。

最近はライヤーという名前で、小さな竪琴のような楽器が作られているが、冬の旅で歌われるライヤーは、非常に複雑な構造をした古楽器だ。

ハーディー・ガーディーという名前の方が通っていて、14、5万円ほどで販売されている。

ここではわずかな間ではあるが、その音色を聞くことが出来る。わびしく、物悲しい哀愁を帯びた音だ。

僕も、さすらいにはほど遠いが、そろそろ一人旅に出るとしようか。

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2006/03/17

DVDデッキで音楽CDを聴けるとは知らなかった

06-03-17_16-47僕は昔買ったLPレコードはいろいろ持っているが、音楽CDは20枚くらいしか持っていない。

音楽CDを聴く時には、コロムビアの「音聴箱」というオールインワンの再生機にかけて聴いていた。

これは、LPレコードからカセットテープまでなんでも聴くことが出来る便利なもので、レトロな電蓄風のデザインになっている。

便利ではあるが、残念なことに音質があまり良くない。

僕は音楽CDを聴くために、専用のコンポのようなものを買おうかとも思い、量販店に見に行ってみた。

コンポもピンからキリまであるが、どこに置くかという問題もあって、なかなか買う決断には至らなかった。

昨日たまたま、DVDデッキのマニュアルを読んでいたら、このデッキで再生出来るメディアの中に、音楽CDと書かれているではないか。

どうやって音楽CDを聴くことが出来るのだろうかと、半信半疑でまずはテレビのスイッチを入れて、DVDの再生モードにしてみる。

その状態で、おそるおそるDVDデッキに音楽CDを挿入して、リモコンの再生ボタンを押す。

するとテレビの画面に、音楽CDの再生であることが表示されて、テレビのスピーカーからCDの音楽がクリアな音質で流れてきた。

テレビ画面には、演奏中のトラックの収録時間と経過時間が表示されている。

なーるほど、こういう使い方があるとは、今まで思ってもみなかった。

これなら、わざわざCDのためにコンポなどを買う必要もなく、くっきりとした迫力のある音で楽しむことが出来る。

今まで宝の持ち腐れだったわけだが、こうした使い方があることはみんな知っていることなのだろうか。

DVDデッキだからDVDのみ、と勝手に思い込んでいたが、最近のデジタル機器は予想以上にさまざまな機能があることに、あらためて目を見張ったしだいだ。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の21世紀エッセイ「時間の岸辺から」に、「裁判員に選ばれ拒否も出来なければ、この原則で臨む」をアップロード)

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2006/03/08

オペラにおける時代や設定の読み替えの是非

06-03-08_22-38僕はオペラについてはまったくの素人で、とりわけモーツァルトのオペラはテレビですら見たことがない。

しかし、今年はモーツァルトイヤーだというので、1月に何回かに分けて特集で放映されたモーツァルトのオペラを録画しておいた。

今日、その録画したDVDの内容をチェックして驚いた。

「フィガロの結婚」にしても「コシ・ファン・トゥッテ」にしても、時代設定がモーツァルトの頃ではなく、なんと現代のある場所に置き換えられているのだ。

ワーグナーの歌劇や楽劇については、時代や設定の置き換えが行われるのが流行りだと聞いてはいたが、モーツァルトまでこんなに時代設定を変えているとは知らなかった。

「コシ・ファン・トゥッテ」はとくに現代を強調しているようで、背広にネクタイ姿の男たちと、真っ赤なミニスカートの女たちが、アメリカンミュージカルのような軽薄な雰囲気を作り出している(写真)。

こうした時代や設定の置き換えは、熱心なオペラファンやマニアたちにとっては、こたえられないほど見ごたえのある面白いステージなのだろうと想像する。

しかし僕のように、まったく初めてそのオペラに接しようとしているものにとっては、思い描いていたモーツァルトオペラのイメージが粉々に打ち砕かれて、強いショックである。

時代設定を変えたら、当然のことながら歌詞の内容も変えなければならない箇所がたくさんあるのではないか、と思うのだが、そのあたりはどうなっているのだろうか。

ともかく、想定外の内容に恐れをなして、僕はすごすごとDVDの再生を停止し、見るのをやめた。

オーソドックスな、というか古典的な演出のフィガロやコシならば見てみたいと思うが、現代風のモーツァルトオペラには手が出ないという感じだ。

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