2010/03/29

などてか惹かれる素数とリーマン予想

100329aちかごろ、いかなるにや、素数なることの、物狂ほしう心置けり。

そも発端は、2月1日付け朝日新聞なる綴じ込み特集ページに、未征服の最高峰「リーマン予想」の裾野を歩きてみむや、てふ記事ぞ載りたるがきっかけなる。

横書きなる記事中に、かたげなる数式のあまた並びおれるを、なにげに目をやりつれば、「自然数に関する和の無限数列の、素数に関する積の無限数列にてぞ表すこと能ふなる」と書かれたるに、くぎづけとなれり。

いでいで、こはまことなるや、と数式凝視すれば、自然数の順に並びおれる無限の+の、素数の順に並びおれる無限の×になむ、イコールにて結ばれたる。

2 3 5 7 11 13 17 19 23 29 ‥‥と、素数の無限に存在せるは証明されたりけるに、並び様はいと不規則にて、間隔も定まれる法則なきものなるに、かくなる素数の、自然数に関する和にて示さるるとは、驚きを通り越し、恐ろしくも怪しの不思議なるぞかし。

オイラーの発見せる自然数と素数の関係式の、そののちにリーマンによりてさらなる掘り下げと一般化せられたりて、「リーマン予想」なる世紀の難問ぞ提起せられたる。

こぞの年は、リーマン予想から150年目なるに、世界の天才たちあまた挑みたりけるも空しく、いまだに未解決のままなるとぞ。

余はたまたま、こぞの11月にBSハイビジョンにて放送されける「リーマン予想・天才たちの150年の闘い」てふ番組、録画したりけるが、そのまま観る機会なく放りおけり。

かつて放映されしポアンカレ予想の番組の、いみじう面白ければ、このたびのリーマン予想の番組もいかでか面白からざるにや、と思ひて先日、こを再生して観たり。

世界最高の頭脳たちの、リーマン予想に挑戦せるも果たさずして、あるものは廃人のごとくなり、あるものは精神の重き病にかかれるなど、この予想のいかに難かるにやを物語れり。

かくして余は、リーマン予想とはなんぞやの、おほまかなる概要のみにても知りたばやと思ひ、一般向けの入門書・解説書のたぐひなむ購ひ来て、読み始めたるばかりなる。

素数のあまりにも蠱惑的にして人をとらへて離さざるは、妖艶なる傾城の如し。

リーマン予想のあまりにも難解にして人を寄せつけざるは、巨怪なるモンスターの如し。

そのリーマン予想こそ、素数の根源的なる秘密の前に立ちはだかる難攻不落の守護神ならめ。

素数の真の姿、素数の正体は、この世界の構造・仕組み・真理と密接不可分なるらし。

そは、数学にとどまらず、素粒子や量子のふるまひ、さらには空間やエネルギー、はたまた宇宙とは何ぞやなる深遠にまで関わるとぞ。

かくするうちにも、リーマン予想解決の大ニュースの、世界を駆け巡ることの、あながちになきにしもあらぬを。

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2006/01/20

センター試験のヒアリング、トラブルが心配‥

明日からのセンター試験は、始めて導入される英語のヒアリングがスムーズに行われるかどうかが注目される。

試験会場のスピーカーで流すのではなく、一人一人の受験生に巻き戻し不可能なICレコーダーが配布されて、受験生がそれを操作しながらイヤホンで聴く、というシステムが気にかかる。

調子の悪いレコーダーにあたってしまった受験生はどうすればいいのか。

大声を上げて監督官にアピールすることは出来ないだろうし、手を上げても監督官が気づいてくれなかったら‥。

操作を勘違いして、聞こえないまま再生を進めてしまったら、自己責任でもう一巻の終わりなのだろうか。

観光ツァーでよく貸し出されるイヤホンガイドも、最初は半分くらいの人が装着方法や操作方法を誤る上に、実際に調子が悪い機械も数台に1台くらいは存在する。

隣の席の受験生が、かんじんな時に、セキやクシャミをしたために、聞き取れないことだってあるだろう。

受験会場の近くを救急車やパトカーがサイレンを上げて通ることだって、皆無とは言えまい。

右翼の街宣は来ないにしても、事情を知らないリサイクル回収の車や石焼イモ屋さんが、のんびりと回って来ないとも限らない。

ICレコーダーの不良や、突発的な騒音の発生に対して、どのくらい柔軟な救済措置がとられるのかが、ヒアリング導入が成功するかどうかのカギだろう。

難聴気味など特別の措置が必要な受験者はその程度に応じて、本人の申請によりオーディオプレーヤーやヘッドホンを使用でき、重度の難聴者は、審査の上でリスニング試験免除が認められるという。

僕が心配なのは、膨大な数のICレコーダーにヒアリング内容を収録していく作業過程で、ヒアリング内容が万が一にも漏れているような不祥事は絶対にあってはならない、ということだ。

明日からのセンター試験の成り行きを見守りたいと思う。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の21世紀エッセイ「時間の岸辺から」に、「久々に課税された住民税に振り回される」をアップロード)

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2006/01/15

「進」の左下は「しんにゅう」ではなく「しんにょう」?

このところ、いろいろな新聞で日本語について詳しく考察する連載やコラムをよく見かける。

見出しだけで読み飛ばすことも多いのだが、昨年暮れに朝日の「ことば談話室」で取り上げていた「しんにょう」を見て、僕はあれっと思った。

「進」「遠」「送」などの漢字の左下の部分のことだが、僕は学校で「しんにゅう」と習ったし、その後も漢字の説明が必要となる場合には僕も相手も「しんにゅう」と言っていた。

ていうか、「しんにょう」という言い方があることを、新聞のこのコラムで初めて知って驚いたのだ。

僕の学校時代は、これを「しんにょう」などと言ったら確実にバッテンだった。

読者の中にも僕と同じ思いを持った人は少なくなかったようで、今日のこのコラムで「自分は、しんにゅうと習った、とのお便りをたくさんいただいた」と書いている。

コラムの筆者の説明によると、もともとは「しにょう」だったのが、江戸時代は「しにゅう」「しんにゅう」が主流となり、庶民も「しんにゅう」が普通になった。

それが明治以降、本来の読みに立ち返った「しんにょう」が辞書類に広まり、現在の教科書では「しんにょう」が一般的だ、としている。

では僕が習ったのは何だったのだろうか。僕は江戸時代に学校に通ったわけではないのだ。

ちなみに、僕が日常的に使っている「新明解」では、「しんにゅう」を正読みとして、「しんにょう」は⇒「しんにゅう」となっている。

九九と同じくいったん体で覚えてしまったものは、そう簡単には変えることが出来ず、僕は朝日のコラムとは逆に「しんにょう」の方がマイナーな気がしてならない。

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2005/11/30

物質の本性はモノではなくてコトなのだ、という認識

新聞の書籍広告を見て、ふっと思い立って、「物質をめぐる冒険」(竹内薫著、NHKブックス)を買ってきて読んだ。

この本の趣旨は、現代物理学が解き明かした最先端の物質像ということだが、僕のようなシロウトには全く理解出来ない部分も多い。

にもかかわらず、一気に読み終えて不思議な説得力のようなものを感じ、物理学としては理解出来なくても、この世界を見る新しい視点のようなものの端っこに、感覚的に触れたような気がする。

おおまかに、この本に書かれていることの骨子を要約すると、次のようになると僕は思う。

ニュートンとマクスウェルが築きあげた古典物理学の世界では、物質は僕たちが日常的に経験している固くて堅牢で不滅のモノだった。

それがアインシュタインと量子力学の近代物理学によって、物質の概念は大きくゆらぐ。古典物理学の時間や空間の概念も変貌した。

ここまでは、ポピュラーサイエンスの解説書や雑誌でおなじみのところだが、いわばポストモダンともいわれる現代物理学では、物質はもはやモノとしては扱われない。

モノのように見えている物質のふるまいは、すべてコトによっておきていて、モノとは突き詰めていくとコトになってしまう。

この本では、こんな書き方をしてまとめている。

「モノから始まった物理学から、次々とモノが姿を消してゆき、しまいにはモノの置き場所である空間、さらには時間さえもがぼやけてゆき、最後に行き着いたのは、(中略)究極の関係性、つながり、フィクション、コト的世界だったのである」

「いま人類の文化を席捲している大きな潮流は、『モノからコトへ』と呼ぶことが出来る。(中略)現代物理学は、もしかしたら、人類の思想の究極の到達地点をわれわれに垣間見させてくれているのかもしれない」

僕は、ここで書かれているように、人類の思想の究極の到達地点かどうかは、なんともいえないと思うが、だいぶ前に読んだ「宇宙の創造と時間」(佐藤文隆著、TBSブリタリカ)にも同じような記述があったのを思い出して、読みなおしてみた。

対論形式で書かれた「物理の分際-時空と物質」という部分に、こんなくだりがある。

--「もの」すらなくなって「こと」しかなくなるということですか。

--そうなのです。やっていることは、あらゆる「もの」を掃除して、せいせいしたという感じなのです。

物質概念の希薄化ないしコトへの還元は、もしかして物理学だけの話ではなく、いまや僕たちが日々、ネットを通して体験している情報性や関係性として、この世界そのものを特徴づけている実相なのかも知れないとも思う。

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2005/02/08

小泉首相が「鬼の霍乱」とは、「撹乱」かと一瞬思った

風邪をひいて公式日程をキャンセルした小泉首相のことを、細田官房長官が「鬼の霍乱」と評した。

僕は「鬼のカクラン」という言い方は聞いたことはあるにしても、どんな字を書くのかも意味も知らなかった。

カクランとは「撹乱」かと思ったりして、郵政民営化をめぐって自民党を撹乱させる、というようなことをイメージしていた。

正しくは「霍乱」で、日射病や暑気あたりのことだそうで、さっそくコイズミさんは「冬に霍乱はないよ」と語ったという。

「鬼の霍乱」の意味は、ふだん丈夫な者が思いがけなく病気すること、なので季節はどうでもいいらしい。

鬼という言い方は、いろいろな意味に使われているが、コイズミさんは改革の鬼であることを、とっくに断念したかに見える。

オニとは陰(=姿が見えない)からきた言葉なので、国民の目にだんだんと姿が見えなくなってきているコイズミさんには、ふさわしいかも知れない。

鬼が出てくる諺は多い。

鬼に金棒。鬼に衣。鬼の目に涙。鬼も十八番茶も出花。鬼の空念仏。鬼が笑う。鬼の首を取ったよう。鬼が出るか蛇が出るか。

「鬼の居ぬ間に洗濯」というのは、なぜ洗濯なのだろうかと前から不思議に思っていたが、「心の洗濯」の意味だそうで、それなら分かる。

傑作な諺は、「鬼を酢にして食う」で、恐ろしいものを何とも思わないことの意味だ。

酢の物にされた鬼は、たまったものではあるまい。三杯酢だろうか。鬼はどんな味がするのだろう。不味そうだな。

(表の新着情報:「21世紀の歩き方大研究」の新世紀つれづれ草に、『時間の岸辺から』第71回「青い大発明」をアップロード。これは欧州の邦人向け日本語新聞「英国ニュースダイジェスト」に同時掲載)

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2004/09/30

新しい元素のヘンな名前の由来が分かった

原子番号113の新元素が発見されたという昨日のブログで、原子番号が一つ前の112番の元素の名前が、ウンウンビウムという変な名前になっていると書いたが、この名前の由来がここで分かった。

それによると、最近相次いで発見されている新元素の名前は、学会同士の競争などのため、とりあえずは暫定名となっていて、ラテン語やギリシャ語の数字の読み方をあてている。

原子番号112のウンウンビウムは、「1」を意味する「ウン」を二つ重ねて、「2」を意味する「ビ」をつけ、最後に「ウム」をつけたのだという。元素記号はUubである。

これでこの元素が、ウンウンとうなづいている元素であり、聞き上手の元素であり、便秘気味の元素になっているワケが分かった。

では、原子番号111の元素は、ウンウンウンなのだろうか? まさかあ! これでは、うなづき過ぎの元素で、重い便秘になってしまうではないか。

と思って、ウィキペディアなどで見てみると、原子番号111は、なんとウンウンウニウムとなっている。元素記号はUuu。

これまたさらに変な名前で、うなづいているうちに眠くなってムニャムニャになった元素。あるいは、生ウニ丼の美味しさに納得してうなづきながら食べている元素を想像する。

「うんうん、ウニ、うむ」 美味しそうだなあ。生ウニ丼。

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2004/09/29

原子番号113の新元素、0.0003秒の寿命に感動

原子番号113の新元素を、初めて日本人が発見したというニュースに、僕は心が躍る。

現在の教科書に載っている元素表は、原子番号112のウンウンビウムまでである。

ウンウンビウムとはまた、聞き上手の元素なのか、便秘気味の元素なのか、漫画に出てきそうな名前だ。

これに続く原子番号113の新元素を発見したのは、理化学研究所の研究員たちで、名前の候補には「リケニウム」や「ジャポニウム」があがっているという。

発見とはいうものの、自然界に存在しない元素の場合は人工的に作り出して、それが国際的に確認されれば「発見」ということになる。

僕は、この新元素の寿命の短さに、目をみはる。なんと0.0003秒。せっかく作り出されても極めて不安定のため、誕生とほぼ同時に寿命を終えて、ほかの軽い元素になってしまう。

こうした新発見に対しては、「何の役にたつものなのか」「何に応用できるのか」と問う声が必ず上がるものだ。

新元素はおそらく、それが直接何かの役に立つことはないだろうし、新素材として活用されることもないだろう。

しかし、直接的には何の役にもたたないからこそ、僕はこの「発見」に感動してしまう。そもそも、目にも顕微鏡にも見えないこの新元素が出来たことを、人間が確認できること自体が凄いではないか。

さらに、その寿命が0.0003秒しかないことを測定できるということにも、これまた驚嘆する。

瞬く間にというが、この元素は瞬く間すらなく生まれて消えてしまうのだ。

自然界に存在しないというが、本当にそうなのだろうか。ブラックホールになる寸前の、あらゆる物質が想像を絶する高温・高密度の星では、このような極めて重い元素が出来ている可能性はないのだろうか。

原子番号113の新元素と、僕を取り巻く日常との、あまりのつながりのなさに、むしろ深い感銘を受ける。

この不思議な感動こそが、僕と原子番号113とのつながりなのだ。

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