2012/06/16

平家物語全12巻を、1年数ケ月かけて読了す

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全12巻に及ぶ『平家物語』(講談社学術文庫、古文と現代文の対訳)を、去年の春より読み始め、1年数ケ月かけて、やうやう読了したりけり。

余は学生時代に一度、現代語訳のなき平家物語を全文読み切りたりし覚へあるに、その時の記憶ほとど失はれたりけるは。

記憶に残れるは、「祇園精舎の鐘の声」の冒頭部分と、維盛の都落ちで残さるる北の方の「都には父もなし、母もなし」とすがりつく部分のみにて、全体の1パーセント足らずなり。

ほかの99パーセントは、読みたる記憶まったき失はれおりて、中盤から後半にかけての、木曽義仲や源義経らの華々しく活躍する膨大なる記述は、今回読みたるによりて、初めてかやうな内容なりけるか、と知りて驚きたる次第ぞ。

巴御前や静御前の登場したるも、つゆ記憶にあらざりて、若きころは何を読みけむ、といぶかること頻りなり。

青春の読書は必須にして、得るところ計り知れずと言へるも、生半可にして皮相の読解力なること、これまたやむを得ぬことかとこそ。

この歳にして、あらためて『平家物語』読み通して驚嘆したるは、平家の台頭から滅亡までの巨大な流れの中に、多彩なる登場人物の物語のそれぞれに枝分かれしたりて、さらにその人物のドラマやエピソードへと細かく枝分かれしたるてふ、構成のダイナミックさなり。

この入れ子構造の無数の繋がりによりて、勇壮かつ壮絶なる合戦シーンから、繊細なる王朝文学のやうな雅の情景まで、ありとある知の体系を総動員し、さまざまな文体なむ使ひ分けることによりて、古今東西を通じて最大の文学に成り得たりけるにや、と覚ゆる。

時代は大きく異なるものの、この入れ子構造の見事さは、ドストエフスキーの長編文学に通じるやうな気のしたる。とりわけ、『カラマーゾフの兄弟』の入れ子構造に共通するものを見たるは、うがち過ぎなるや。

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2010/12/29

1年3箇月かかり、和漢朗詠集やうやう読み終へたり

101229b去年10月ころより読み始めたる『和漢朗詠集』(小学館日本古典文学全集)なむ、1年3箇月かかりて、やうやう読み終へたる。

1冊の本の読みきるに、かくも長き日数要したるは、余にとりて初めてのことなるは。

2007年春に、トルストイ『戦争と平和』を数十年ぶりに読みきりし時は、50日ほどかかりたりしが、最近にては長き日数要したる例なり。

『和漢朗詠集』は、巻末の付録を別になすとも、436頁ありて、収録されたる詩歌は803首に上れり。

読み進む速さの遅遅として進まぬ訳は、収録詩歌のうち587首が漢詩の佳句なるにあり。

まずは訓み下し文に始まりて、一つ一つの語句の注釈、現代語訳、他の文学作品への引用例や影響なんどに言及せる解説へと読み進み、最後に漢詩の白文を読みて、諳んじて訓み下せるやいなや、大意は白文にて掴めるや、等々を丁寧に遣りおほせると、1日に1頁か2頁ぞ限度なる。

平家物語、枕草子なんどの古典読むと、和漢朗詠集から引かれたる詩歌のひたぶるにあまた文中に出でたるに、一度は通読したしと覚ゆれば、読み始めたるなるぞ。

読了までにいみじう時間のかかりたるによりて、最初の頃に読みつるくだりは、記憶のおぼろなるもあるに、頁捲り返せば思ひ出すは難からず。

いまは読み遂せたる達成感こそあれ。

心に深く刻まれたる詩歌、数へきれぬほどある中に、最後の方なる白居易の佳句は、現代に生きるすべての者に、その意味を問ふ絶品なるによりて、ここに掲げておきたし。

蝸牛角上争何事

石火光中寄此身

訓み下し文は「蝸牛の角の上に何事をか争ふ 石火の光の中に此の身を寄す」にて、意味は次のやうなり。

かたつむりの角の上のやうなる狭く小さきところにて、何をあくせくと争ふにや。

人生は、石を打ち合はせて出る火花のやうなる短き一瞬の時間に生きているものなり。

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さあらば、どなたも、みなみな、よき年を迎へられむことを、祈り奉るぞかし。

Please welcome a Happy New Year.

Пожалуйста, желанным хороший год.

S'il vous plaît accueillir une bonne année.

Bitte begrüßen Sie ein gutes Jahr.

Vogliate prego benvenuto un buon anno

请请迎接好年。

 

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2010/05/23

空き箱二つ重ねて、重き本の読書スタンド完成せり

1005231a家にて本を読めるに、おほかたの軽き書物の、椅子にかけたる姿勢にて、手に持ちて読むこと、いと容易なり。

文庫、新書なんどは片手にても持ちて読むこと能ふ。

されど、余が最近、やうやう読み出したる小学館の日本古典文学全集の、1冊の重さなむ1200グラムから1300グラムあるは、持ちて読むことの、いみじう難儀なりける。

机の上に、本を立て架けるべく読書スタンドのあらましかば、重き本なりとも疲れざらましとぞ覚ゆる。

ネットにて調ぶれば、読書スタンドや書見台のたぐひ、あまた売られたりて、価格はおおむね数千円から2万円程度なり。1005232a

されど、これらの大半はベッドなどに寝たる姿勢にて読書せむためのスタンドなりて、本の重さや厚さに制約あるもの多し。

市販の読書スタンド見渡せど、余の求むる物のなければ、いかにせむと思案す。

家の中なる空き箱のたぐひの、捨てむも勿体無きとて取りおきたるを、うまく重ね置きなば、重き書物の立て置くこと得るにや、とて、しばし試行してみつ。

いでや、煎餅の空き箱の中箱と蓋を組み合わせたれば、あつらへたるがごとく、重き本の幅よく合ひて、ずり下がることもなく、しかと支えられたるかな。

高さのいまひとつ足らざるを思ひて、下に靴の空き箱を置きてみたり。

こは、適度の高さになりて安定感もあり、下の空き箱の中箱と蓋の置きかた変へたれば、書物の角度の連続的に調整すること能ふやうになりたるぞ(写真上に比ぶりて、写真下は急角度にしたる)。

試しとてこの形にて読書してみむに、すこぶる快適にて、手作り読書スタンドの出来栄え上々なり。

あながちに購はずとも、はつかの工夫の勝れることもぞ、と一人悦に入れる。

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2008/10/03

『箱舟の航海日誌』を読む‥動物たちに忍び寄る危機とは

Scan028b書店で偶然見つけて手にした一冊の文庫本。そのタイトルだけに惹かれて、思わず買ってしまった。

ケネス・ウォーカーの『箱舟の航海日誌』(光文社古典新訳文庫)である。

聖書に縁遠い人たちでも、どこかで読んだり聞いたりしたことがある「ノアの箱舟」の物語。

しかし、その箱舟の中で、いったい何が起こっていたのかについては、ほとんど語られていない。

この小説は、洪水に備えてノアとその家族が作った巨大な箱舟に、大小さまざまな動物たちが乗り込んでいくところから始まる。

動物が擬人化されて、まるで人間のようにしゃべったり、喜怒哀楽の感情を表しながら、集団生活を始める様子は、平和なメルヘンであり、子どものための童話のようでもある。

しかし、この小説の凄いところは、動物たちの無邪気な箱舟生活の描写にとどまらなず、やがて箱舟の中に生じる微妙な変化と動物たちに忍び寄る危機を、ていねいに描いていることにある。

その変化と危機とは‥これ以上はネタバレになるので書かないが、生きるということの本質的な問題点を鋭く突いて、いまなお私たち人間をも含めて、精神的・思想的な解決のないテーマとなっていると言っていい。

この小説は、さまざまな読み方が出来る。箱舟の中の動物たちの集団は、さまざまなレベルでの人間集団に置き換えることも可能だろう。

家族、地域社会、都市や村、国家、国際社会。箱舟に生じた危機は、もはや危機にとどまらず、幾多の惨劇と破滅をすでに何度ももたらしてきた。

共存や共生ということは、言うは易いが、もしかしてあり得ぬ幻想に過ぎないのかも知れない。

僕は、ケネス・ウォーカーという作者も、この小説のこともまったく聞いたことがなかったが、ウォーカーは第1次世界大戦に従軍し、1923年にこの『箱舟の航海日誌』を書いたという。

作者のそうした体験や時代背景も、作品には色濃く反映しているようだ。

1日か2日で読める長さで、興味を持たれた方にはお勧めしたい。

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2008/02/03

『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』が書店の棚に

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本を出版すると、本当に書店の棚に並んでいるのか、どんなコーナーに置かれているのか、ということが気になって仕方がない。

そこで、何食わぬ顔をして、新宿の大書店を次々と偵察して回る。

紀伊国屋、ジュンク堂、三省堂。『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』は、ちゃんとありました! どの店も、環境コーナーに置かれている。

書店の棚に、自分の本が堂々と(あるいは、ちんまりと)並べられているのを見ると、よしよし、ちゃんと並んでいるな、たくさんの人に買ってもらえよ、と本たちに声をかけたくなる。

そっとケータイを取り出して、さりげなく写真に撮ったりしてみる(写真)。

この店では、『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』という本の隣に並べられている。

ひえーっ、こちらの本は「ベストセラー 25万部突破」などと書いてある。これには及ぶべくもないが、せめてその10分の1でも売れてほしいものだと羨ましい。

パブリシティも打つべき手は打っているので、これからどれくらいの反応があるか(あるいは全く反応がないか)、しばらくは様子をみるほかはない。

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2008/01/31

「地球カレンダー」の新しい本が出来ました!

Earthbook2b 去年の師走から、ずっと集中作業で取り組んできた仕事が、ようやく仕上がりました。
 「表」のサイト、「21世紀の歩き方大研究」の中に作っているオリジナルの「地球カレンダー」の単行本化、第2弾です。

タイトルは『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』。英語のタイトルは、『Good-bye beloved planet  Calendar of the earth』です。

 「地球カレンダー」は、4年前に『人間なしで始まった地球カレンダー』というタイトルで、ごま書房から出版していますが、今回はそれから4年ぶりに、ごま書房から全く新しい本として世に出すことが出来ました。

 今回は、カラフルなイラストを散りばめ、だれにも読みやすい絵本スタイルにしました。地球46億年の歴史を1年365日に置き換えて記録した本文は、英文対訳になっていて、外国の方にも読んでいただけるようにしています。

 日本文と対比しながら読めば、英語の学習としても使えます。

 今回の本は、待ったなしで迫り来る地球温暖化によって、人類と文明の存続そのものが重大な岐路に立たされている、という強い危機感を反映したものになっています。

 本文の後には20ページの解説を付け、今日の温暖化を中心とする地球環境危機について、最新のデータで分析を加えるとともに、地球の歴史の中で最も遅れて登場した人間という生物種が、地球とほかの生きものたちに壊滅的な打撃を与えている現状について、詳しく記述しています。

 タイトルの『サヨナラ愛しのプラネット 地球カレンダー』には、さまざまな思い入れとメッセージが凝縮されています。

 都市部の大型書店などには、この週末ころから並べられ、地方の書店にも5日ころには並ぶ予定です。

 書店の店頭にない場合は、取り寄せ注文が出来ます。ネットでの注文は、紀ノ国屋書店ジュンク堂書店セブンアンドワイアマゾンなどでどうぞ。

 書店でこの本を見かけたら、ぜひ手に取ってご覧になっていただけると有難く思います。ではみなさんのご支援をよろしくお願いいたします。

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2007/11/20

ドストエフスキーを2冊読む

Scan0101秋の夜長に、ドストエフスキーを2冊読んだ。どちらも、僕は初めて読む作品で、新潮文庫から文字の大きな版が出たことが、読んでみようという動機になった。

まず『死の家の記録』。これは、言うまでもなく、いったんは死刑まで宣告されたドスト自身の過酷な獄中体験を綴ったもので、小説の形式をとってはいるものの、貴重な体験ルポとして、作り物にはない生々しい描写と迫力に満ちている。

ここに描かれた囚人たちの人間模様、とりわけ食事や睡眠、入浴、病気、鞭刑など監獄生活の描写は、ドストにしては珍しく細部に至るまで精緻を極め、まるでブリューゲルの絵画を見るようだ。

囚人たちの間での金の貸し借りや、獄内で高利貸しを営む囚人の話。建前としては禁じられている酒を外部からこっそり持ち込んで獄内でウォッカの密売をする囚人たちの話などは、わくわくするほど面白い。

獄内で囚人たちが自主的に企画して実施した演劇公演のくだりも圧巻だ。

次から次へと登場してくるさまざまな囚人たちの、身の上話や生き様からは、人間というものを鋭く観察するドストの視線が伝わってきて、後に書き上げる多くの作品の主人公たちの萌芽が、これらの囚人たちに見られるのも興味深い。

ドストの多くの小説で、犯罪や裁判、監獄、刑罰などが大きなモティーフとして流れているのは、こうした自身の体験を通しての人間への深い洞察があることを、この小説は気づかせてくれる。

もう一冊は、『虐げられた人びと』。これは、不思議な老人と老いた犬の書き出しからして、読む者を小説内に引き込んで、読むのがやめられなくなる。

私(ワーニャ)が綴るナターシャとアリョーシャの恋愛関係を横糸とすれば、冒頭の老人とその孫娘のネリーの悲惨な人生が縦糸となって、物語はテンポよく次から次へと意外な展開になっていって、面白さという点ではドストの中でもカラマーゾフに次ぐのではないか、と僕は思う。

このネリーという少女は強烈な印象を読む者に与え、最後に明かされるドンデン返しが衝撃的だ。

登場人物はそれほど多くなく、『白痴』や『悪霊』のような長大で難解なところもなく、読みやすくてしかも読後感の良い傑作としてお勧めだ。

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2007/09/20

ドストエフスキーの「賭博者」を読む

Scan0051書店の棚でたまたま目にとまったドストエフスキーの「賭博者」を買ってきて、一気に読んだ。

僕がこれを読もうと思った理由は単純で、新潮文庫から文字の大きな版になって出たからである。

これはドストの作品の中でも、喜劇的要素の極めて濃い異色の作品であろう。

(以下、ネタバレあり。これから読もうと思っている方はご注意を)

ドイツの、とある温泉地のホテルに、ロシア人の一家やその家庭教師、一家と利害関係があるさまざまな人たちが逗留している。

詮方なく、ときたまカジノのルーレットで遊んだりしているが、この連中はみな、一家の親戚でモスクワにいる大富豪のお祖母さんがいつ臨終を迎えるかを、息をひそめて注目している。

お祖母さんの容態はかなり悪いらしく、みなあからさまに口には出さないが、お祖母さんの遺産が転がり込むことを、それぞれがあてにして待ちわびている。

そんなある日、まったく突然にみなの意表を突いて、当のお祖母さんが、かくしゃくとした姿で車椅子に乗って、毅然として連中の前に現れる。

ドストは、登場人物を極限の状態に追い詰めて、その言動や心理状態を描写するのがうまいが、お祖母さんの信じられない登場に驚き、あわてふためく連中の姿が、目に浮かぶように面白く描かれている。

お祖母さんは、みんなが自分の遺産をあてにして、いまかいまかと死の知らせを待っていたことも知っている。

物語のクライマックスはこの後だ。

ホテルの近くにカジノがあることを知ったお祖母さんは、どんなものか見てみたいと言い張って、車椅子に乗って賭博場に連れて行ってもらう。

ちょっとやってみようかと、ルーレットに手を出したお祖母さんは、立て続けに勝ってしまう。

これでお祖母さんは、すっかりルーレットにはまってしまい、一家や見物人たちの忠告にも全く耳を貸さずに、賭博に夢中になってしまう。

挙句の果ては、みんなが遺産として期待をかけていた財産の大半を使い果たしてしまって‥‥

という筋立てで、この物語の主役は、「わたし」として一人称で語られている家庭教師よりも、むしろお祖母さんなのだと僕は思う。

僕も若いころには、ポーカーにはまってしまって、今だから言うのだが、貯金通帳一冊をゼロにしてしまった経験があるので、賭博に引きずり込まれる心理はひとごととは思えない。

映画化すれば面白いのに、と読みながら感じていたのだが、後で調べてみたらすでに1958年に、クロード・オータン・ララ監督、ジェラール・フィリップ主演で映画化されていた。(邦題は「勝負師」)

日本を舞台にしてお祖母さんとそれを取り巻く人間模様に絞り、三谷幸喜あたりが映画化してくれたら面白い作品になると思うのだが、実現しないかな。

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2006/05/17

4度目の「カラマーゾフの兄弟」に挑戦開始

060517_17501新宿駅の南口を出たとたん、コンコースでなにやら派手なキャンペーンが繰り広げられている。

なんだろうと思ってみたら、なんと「ハリー・ポッター」の新しい巻の発売日なのだという。

僕はこの手のファンタジーは嫌いではないのだが、ベストセラーとしてマスコミあげて意図的なブームを仕掛けているようなものは、かえって読みたくなくなるのだ。

ひねくれている、といえば、そのとおりかも知れない。

だから、「ダ・ヴィンチ・コード」も興味をひかれながらも、結局は読みそびれてしまった。

「バカの壁」もそうだが、およそベストセラーになってしまった本は、僕はもう読む気が失せてしまう。

僕も何かそろそろ本を読もうかと思っていたところなのだが、書店に入ってみると、まずはベストセラーのオンパレードでたちまち怖気づく。

いろいろと手に取ってはみるものの、うーん、という感じで、いま一つ読もうという意欲が沸かない。

文庫本の売り場に来て、ふと、新潮社の「カラマーゾフの兄弟」が目にとまる。

僕は、この作品を少年時代から、何度か読んでいるのだが、人生の残り時間がそれほど多くあるわけではないこの年で、もう一度、この作品を読んでみようか、と思った。

さいわい、この新潮文庫は文字が大きくなっている版だ。思い切って、全3巻を買う(写真の下)。

家に帰ってから、僕がこれまでこの作品を読んだのはいつだったのか、調べたくなった。

日記などつけていないのだが、僕はこうした長編小説を読み終えた時点で、最後のページに読了した日付を鉛筆かボールペンで記入しているのだ。

幸いにして、僕が読んだ「カラマーゾフの兄弟」の古い本が捨てないでとってあった。

それらの最後のページをくくると、タイムマシンのように昔の僕が書いた文字がある。

最初に読んだのは、河出書房新社の世界文学全集(写真上の左)で、僕は高校1年だった16歳の9月20日に読了している。

それから10年後、社会人になって2年目の26歳、9月27日に、この同じ本について2度目の読了をしている。

次に読んだのは、河出書房新社から出たドストエフスキー全集の上下2巻(写真上の真ん中と右)で、社会人になって8年目、32歳の年の12月20日に読了している。

こう見てくると、僕は3回読んでいるはずなのだが、細部のストーリーや登場人物たちの会話の内容などは、ほとんど覚えていない。

これらの版の文字の小ささには愕然とする。いまはこんな小さな活字にはとてもついていけない。

今日から実に何10年ぶりかで、4度目のカラマーゾフに挑戦してみたい。

かつては若さのゆえに読み取れなかったくだりや、ぼんやりと読みとばしていた多くの箇所に、いろいろな新発見があるかも知れない。

4度目の読了の日付を、この文庫本に書き込むのは、いつになるだろうか。

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2005/06/23

いしいしんじ「ポーの話」を読んで

img0081いしいしんじの2年ぶりの長編小説「ポーの話」(新潮社)を読み終えた。

現代小説をほとんど読まない僕が、いしいしんじの世界に引き込まれたのは、「麦ふみクーツェ」(理論社)によってだった。

その時は、たまたま新聞の書評が目にとまり、その中で「どこか宮沢賢治の世界を思わせる。宮崎駿のアニメを思い出したりもする。あるいはブラッドベリのファンタジーも」と書かれていたことから、即座に買ってきて読んだ。

以来、僕はいしいしんじにすっかりはまってしまい、「ぶらんこ乗り」(理論社)、「トリツカレ男」(ビリケン出版)と、作品を立て続けに読んでみた。

今回の「ポーの話」は、これまでの作品の中で最も読み応えがあり、「麦ふみクーツェ」のメルヘンのような世界をもっと広げて、川の流れに沿ったようなダイナミックな物語展開が、読むものをぐいぐいと引き込んでいく。

主人公のポーは、泥の川の中で働くおおぜいのうなぎ女たちに育てられた少年である。

舞台は、どこにも存在しない無国籍の奇妙な街なのだが、その光景やポーと出会う人々は、夢の中で出会ったことがあるような不思議な懐かしさを帯びている。

この街にある日、500年ぶりの大豪雨が襲い、ポーは次々と数奇な体験を重ねていくことになる。

ポーの体験するさまざまな出来事は、それぞれが独立した物語にもなっているのだが、全体の流れは終盤にかけて意外な展開となっていく。

底流に流れるものは、生きるということの漂流性であり、清濁がまじりあったこの世界へのいとおしさ、のようなものだろうか。

最後にポーはどうなったのか。これは読む人それぞれの解釈が成り立つくらいに、幅を持った不思議な書き方になっている。

読み終えた後もしばらくは、切ない気持ちと救われた気持ちが交錯しながら、余韻にひたってしまう。

現実世界のリアリズムを離れて、あり得ない世界の中を主人公たちとともに漂流してみたいという人には、イチオシでお奨めの本だ。

この本についてのほかの方の読後感: みつまめ&たけのこ読書日記 みきにっき

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